秩父人に聞く

石井智恵子さん

秩父にて、絵画教室とフラメンコ教室を主宰しながら、自身も画家として、個展やグループ展などへの出展、フラメンコダンサーとして秩父市内のイベントに出演する等、活躍している旧姓赤岩智恵子さんは、昭和29年生まれ、現在62歳になる。このたび結婚して石井智恵子さんとなった。結婚という新たな節目を迎え、石井智恵子さんにこれまでの62年を振り返り、まだまだやりたいことがたくさんあるという未来についても語っていただいた。

智恵子さんが生まれ育ったのは、秩父市宮地。秩父夜祭のルーツとなっている「妙見七つ井戸」があり、農家の多いのどかな田園地帯である。
教員である父と着物の仕立てをしていた母との間に長女として生まれた。けっして裕福な家庭ではなかったが、両親は智恵子さんへ深い愛情を注いでくれた。「父親には溺愛されていたの。他の男は寄せ付けないみたいに。」と屈託なく笑う智恵子さん。
その様子は、古いアルバムからも伺え、几帳面に貼られた写真には、ひとつひとつに丁寧に智恵子さんに宛てたメッセージが添えられている。
「智恵子 すこやかに育て 貧しき私はお前になにも買ってあたえてやれぬ しかしこの写真は 生来お前にも私にも 最大の思い出となろう」

小学校高学年の時、父は智恵子さんに「罪悪論と羞恥論」というタイトルで作文を書かせたという。罪悪論というのは西洋、羞恥論が日本的な考え方なのだそうだ。西洋では「悪いからやめなさい」日本では「恥ずかしいからやめなさい。」そういう教育がなされているという父の考え方によるものと思われる。「私には、(父によって)変な教育が入ってるんですよ。他には植木算とか。」
これもまた生物学が専門だったという父から教わったという「植木算」についても詳しく説明してくれるほど身に付いている。「罪悪論と羞恥論」そして「植木算」これが、智恵子さんの記憶に深く刻まれている。

当時はプロテスタント教会が、秩父地方で伝道を始めた時期であり、智恵子さんは3歳のクリスマスに父と一緒に幼児洗礼を受けた。父は熱心なクリスチャンとなり、アメリカ人宣教師の子供達との交流が生まれたり、また母親が日本人離れした彫の深い顔立ちをしていたことから、智恵子さんは自然に西洋文化に対して興味を膨らませるようになる。

ちょうど秩父にも西洋文化芸術が入り込んできた頃で、智恵子さんもヤマハ音楽教室で第一期生としてオルガンを習い始めた。宝塚出身の先生による「高野バレエ学校」でクラッシックバレエも習い始める。また、画家斉藤政一氏に絵も学ぶようになった。両親は智恵子さんがこういった教養を身に付けることにお金を惜しまなかった。オルガン教室は後にピアノ教室として発展し、バレエは高校生まで習い続けたというが、宝塚出身の先生だけに、ふつうのクラッシックバレエではなく、歌劇の要素も取り入れたバレエであったことが当時の発表会の写真から垣間見えた。
こうして西洋の文化の影響を受けながらも、それによって同時に東洋文化への思いや日本人であることの誇りも自分の中に生まれてきたのだともいう。

実は智恵子さんは、生まれたての時に中耳炎にかかったことから右耳の聴力を失っている。そのため彼女が選んだのは絵の道であった。セザンヌを尊敬していたという師である斉藤政一氏の精神性の高く深い絵に影響を受けていく。
昭和34年の伊勢湾台風の際には、教会の奉仕団としてリヤカーで物資を運んだりするほど熱心に活動をしていた父親だったが、智恵子さんが12歳の時に、教会から離れてしまった。智恵子さん自身も教会に行けなくなってしまい、そこからが落ちこぼれ時代の始まりとなった。中学3年生の時には、担任の否定的な言葉がきっかけで、躓き怯える自分に変わってしまったという。
高校生になると、学校に対して反発心を抱くようになり、勉強もせず、何をしたらいいのかもわからず、暗い生活を送っていた。美術の道に進みたいという夢がありながら、美術室に行くこともなくなり、上位にいた成績もいつしか最下位になっていた。今思えば、父親に溺愛されて育った自分がこういう躓きを経験したことにより強くもなれたので、よかったのだと言えるが、この当時は必死に反抗しており、両親はずいぶんハラハラしながら見ていたと思うと振り返る。

美術室に行かなくなった原因の一つとしては、受験勉強のデッサンをしたくなかったということがあった。尊敬する斉藤政一先生が、安易な方法でデッサンをしてはいけないと、常々話してくれたこともあり、受験のためではなく一生使えるデッサンをしたいと思ったのである。斉藤先生の「共学ではだめです」という意見もあり、智恵子さんは女子美術短期大学造形科絵画教室に進学した。
「実は…」とまた笑いながら「高校時代に本当に勉強していなかったので英語がまるっきりダメだったの。だから受験科目に英語がない学校じゃないと受けられなかったの」と肩をすくめて言うが、消去法で入ったこの学校で素晴らしい師との出会いがあった。
本人曰く落ちこぼれだった智恵子さんに、入江観先生と山川輝夫先生がなにかと声をかけてくれた。入江先生が教える茅ヶ崎校舎にある専攻科に進み、心機一転、人の三倍絵を描こうと心に決め、朝9時から茅ケ崎校舎のアトリエに行き、夜遅くまで描いていたという。この専攻科には35歳まで残って絵を描き続けた。

 

 

宣教師の子供たちと
父の愛情こもるアルバムの1ページ