便利屋AIAIの事件簿⑶~老人ホーム桜福園・入所者行方不明事件~ 山崎丹生

便利屋AIAIの事件簿⑶~老人ホーム桜福園・入所者行方不明事件~山崎丹生


両親と一緒に自動ドアをくぐると、私たちのテンポを読み間違えたのか、後ろを歩いていた弟の律(りつ)が外に取り残されたのが見えた。
慌てて走り来たので、開く前に頭から自動ドアに衝突してしまう。
数秒後、額をさすりながら横にたどり着いた、私とおそろいの黒のダウンコートで着ぶくれた弟に向かって、私は「のろま」とこっそり吐き捨てた。
彼は傷ついた表情をしたが、言い返すことなく、泣きそうになって私と両親の後をついてくる。
もう小学五年生になるというのに何かとろいこの弟は、私にとって数少ないコンプレックスのひとつだった。
受付で母が「久萬木信夫(くまぎ・のぶお)の身内です」と祖父の名前を伝えている。今日は月に一度の祖父との面会日だ。八王子に住んでいる私たち一家は、父方の祖父が入所している秩父のこの老人ホームを月一回訪れる。祖父自身が地元の秩父にいることを望んだせいもあるし、実家があった秩父から祖父を引き取るのを父がためらったせいもある。父曰く、同じ山間の町でも秩父と八王子は微妙に違うらしい――緑の色とか、山の街への近さとか。私には同じにしか見えないのだが。
祖父はこの老人ホーム・桜福園(おうふくえん)に入所している。数年前に祖母が亡くなり、直後に脚を悪くしてからずっとだ。今では車椅子なしで外出できないし、やや忘れっぽくなって、耳が遠くなった。けれど、毎晩お酒を飲みながら呵々大笑していた陽気さは損なわれず、ホーム内では人気者らしい。
まったく外面はいいのだから。
「つかさ、介護士さんからお話があるらしいから、律と先にお祖父ちゃんのところへ行っていて」
母が振り返って言うので、私は不承不承頷いて、傍らの律を促してその場を離れた。あんまり勢いよく体の向きを変えたので、ロングの髪の束と膝丈のスカートが遅れて体にまとわりついた。
「お姉ちゃん、お祖父ちゃんは何号室だっけ?」
「まだ覚えてないの? 一〇二よ」
律の質問に答えながら談話室の前を通ると、やたら背の高くて耳が幅広の陽気な男が小柄な老婦人に向かって声を張り上げていた。
「いえいえ、私が桜城(さくらぎ)さんからご紹介いただいたお客様を無碍に扱うわけがないでござりませんか。この草鞋(わらじ)をどうぞご信用し――」
通りすがりに軽く聞いただけだが、この男が胡散臭いことはすぐに分かった。相手を持ち上げて何かを売りつけようとしているらしいが、笑顔が嘘くさいし、そもそも、言葉遣いが怪しい。
「お姉ちゃん?」
律の訝し気な視線に、男と老婦人の会話に聞き耳を立てていた自分に気づき、慌ててその場を立ち去る。目指す一〇二号室は談話室からやや歩く。私たちは足早に廊下を歩いた。


祖父はしかし室内にはおらず、車椅子に乗って部屋を出てすぐの廊下に貼られた展示物を眺めていた。ホームの中だというのにカーキ色の厚手のジャケットを着込んで、靴まで底の厚いのを履いている。私たちに目を止めて、
「おゥ、つかさ、律。来たか」
と目を細めた。
「この俳句、俺が書いたんだよ。なかなかうまく書けてると思わねぇかい?」
祖父の視線を追うと、刺繍や絵画などの廊下の展示物の中に、数点の俳句の短冊がかけてあった。私と律はそれらを読む。

『冬うらら牧羊の声柔らかし 木昇』
『蒼白の空へ顔あぐ秩父紅 萬信』
『鶯の声筒抜ける朝厨 久連』
『梅の花一片落とし鳥の翔つ 青嵐』

「……どれがお祖父ちゃんの俳句?」
祖父は心外そうに唇をゆがめた。色の黒い、カエルに似た顔立ちの祖父は、唇をゆがめるといっそう両生類めく。
「見てわかんねぇか? 俺のは――」
「お義父さん!」
高い声に振り向くと、母が血相を変えて近づいてきた。
「児島(こじま)さんに聞きましたよ、まぁたお酒を持ち込んでたって! 血圧が高いから飲酒はご法度だって、何度言ったら――」
先ほどの介護士の話とはそれか。
祖父はどういう手を使ってか、ホーム内にお酒を持ち込むことがしばしばあった。飲んだからといって正体をなくすことはないのだが、高血圧に飲酒が悪いのは勿論である。
母の怒りに、祖父は悪びれもせずに片手をあげて謝っている。数歩遅れてやってきた父はもはや諦観の目をしているが、それでも一応、釘を刺すのは忘れない。
「親父、俺もちゃんと怒ってるんだからな。脚を悪くしたのだって、飲みすぎで転んだのが原因だろう。また飲みすぎたら、今度は転ぶだけじゃすまないかもしれないぞ」
祖父も息子の言葉には弱いか、と思って顔を見たが、こそっと律に顔を寄せて、
「おめェの両親は相変わらず頭が固いなァ」
とささやいているので呆れた。
初めての男の孫ということもあって、律は祖父のお気に入りなのだ。
あれは律が小学一年生の時だったか。漢字で自分の名前は書けないし、計算は苦手で、足は遅い。このままでは将来が心配だということで、両親が律をスパルタで有名な塾へ入れようとした。その時は脚も動いて、しばしば私たちの住む八王子まで車で尋ねてきていた祖父は、その話を聞いて、家族で唯一、反対した。
『勉強なんておいおいできるようにならァ。足の遅いのも、そう気にするもんじゃねェ。それより、律。学校は楽しいか? 友達と遊ぶのは楽しいか? 子どもは、遊ぶのが仕事だからなァ』
父は祖父の言葉に何か感じたのか、以降、律を塾に無理やり入れる考えをなくしたようだ。
もっとも、小四になってからは、友人が通っているから、という理由で律自身が望んだため、律は補習塾に通うようになったが。
祖父と律は、祖父の面倒見のいい部分と律の素直な部分がちょうどいい具合に噛み合って、我が家の誰とも違う不思議な関係性を育んでいるようだった。
祖父はいたずらっ子の笑みで律を遊びに誘い、律はおどおどびくびくしながらも祖父に従う。律の、彼の普段の様子からは想像もできない、繊細な筆遣いの水彩画や彫刻は、木工や革などの細工が趣味の祖父の誘導があってこそのものに違いなかった。
「バスタオルとハンドタオル、新しいの持ってきましたよ。あと、新しい下着と、ズボンと――頼まれていたものはこれで全部かしら?」
一〇二号室に入ると、さっそく母が荷物から祖父から頼まれていたものを棚の上に出していった。父がその整理を手伝いながら、私に小銭を握らせる。
「律と好きな飲み物を買っておいで」
私は律を誘おうとして、彼が祖父と嬉しそうに話している様子を目の当たりにしてしまった。
「律、コーラでいいわね?」
尋ねると、祖父から顔を外さず、彼は頷く。
私はひとりで談話室へと向かった。そこには自動販売機がある。
「――ということで、私はひとり飛行機に乗り、小笠原へと飛んだのです!」
談話室では、先ほどの胡散臭い男が小柄な老婦人を相手に相変わらず大げさな身振りで話を続けていた。男はどうやら何かの調査を老婦人から頼まれており、その調査報告に来たらしい。怪しい物を売りつける商売人ではなさそうだが、胡散臭いのに変わりはない。
私はペットボトルの温かいミルクティーと冷えたコーラを買う。一〇二号室に戻ろうとしたところで、ダウンコートのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
見れば、クラスメイトの女の子からのメッセージアプリの着信だ。来週にある模試の試験範囲についての質問だった。わかる範囲で答え、スマートフォンをポケットに戻したところで、胡散臭い男のぎょろ目と目が合った。いつの間にか小柄な老婦人は消えている。
「……何か?」
にらみつけると、
「ひょっとして、あなたは久萬木信夫さんのお孫さんかな?」
「そうですけど」
答えてから、ぞっとした。この男、なぜそれを知っているの?
私の疑念が伝わったのか、男はそわそわと説明する。
「いや、私は怪しい者ではない。あなたのお祖父さんとはここに数回出入りしているうちに親しくなって、お孫さんのお話を聞いたんだ。お姉さんは東京でも名門の女子高に通われていて、自慢の孫だとか、弟さんはたいそう絵がお上手だとか」
よくその情報だけで私と分かったものだ。
「お姉さんは味噌ポテ堂の看板娘の芝山(しばやま)さくらちゃんと似ていてとてもかわいいとか」
誰だそれ。
「味噌ポテ堂?」
私が首をかしげると、男は意外そうに、
「知らないかい? 秩父名物味噌ポテトをそのまま饅頭にするという離れ業を成し遂げた和菓子屋が秩父にはあって――」
「ああ」
思い当たった。
「ただのジャガイモが入っている味噌餡のお饅頭じゃないですか」
「それを言ってはいけない!」
男は急に真顔になって怒鳴った。
私が目を点にしていると、男は咳払いをした。
「失礼。その店の店主と知り合いなもので。――私は市内で便利屋を営んでいる草鞋という者だ」
さっと名刺を差し出されたので見ると、確かに『便利屋AIAI 草鞋勝也』とある。
「便利屋さんが老人ホームに何で出入りしてるんですか?」
男――草鞋はここぞとばかりにふんぞり返って見せた。
「実は、こう見えてもかつては探偵業を営んでいてね。桜福園の方々の中には初恋の人を探してほしい、とか、かつて住んでいた場所の現在の様子を知りたい、という理由で依頼なさる方が大勢いるのだよ」
元探偵には格好の依頼人がいる訳か。
「お祖父ちゃんもあなたに何か依頼したんですか?」
「いや、久萬木さんとは調査の過程で少々おしゃべりしただけで。本当に陽気で面白い方だ」
にこにこ衒いのない顔で笑っているのを見ると、胡散臭さが少々減って、つっけんどんに対応したのを後悔してくる。
「……そう言ってくださるとありがたいです。家ではうるさいだけなので」
草鞋が不思議そうな顔をしたが、私は無視した。
「部屋に戻るので、失礼します」


「あら、つかさ。律とお祖父ちゃんは?」
一〇二号室に戻ると、ドアから顔をのぞかせて母が私に尋ねた。
「え、部屋にいないの?」
私は応えて、母の背中から向こうを覗く。父がベッドの脇に佇んでいるだけだった。
母が首をかしげて、
「さっき、『お姉ちゃんのところへ行く』って言って、律がお祖父ちゃんの車椅子を押して部屋を出て行ったのよ。行かなかったの?」
「会ってないけれど……」
私の語尾が消えていくにしたがって、母と父の顔色が悪くなっていく。
前例があるのだ。
まだホームに入って間もない頃。杖を使えば一人で歩くことができた祖父は、面会日で会いに来た律を連れてふたりホームから消えてしまった。数時間後に笑顔で帰ってきた彼らは、近くの山の桜を見てきたと言い、心配のあまり倒れそうになっていた両親をあきれさせた。
後から、律が学校で友人関係のトラブルを抱えていて、その悩みを祖父が聞いていたのだと分かったのだが……あの時は季節が春だったから、探す方もまだ安心していられた。
けれど、今は二月の真っただ中。今朝の雪がまだ融けていない極寒の冬。
もしふたりが前回のように山に登ってしまっていたら、寒さで体力を奪われて動けなくなってしまうかもしれない。祖父だって、いくら元気だといっても七〇歳を超えているのだ。
「ホームの人に言って探してもらおう。外に出てしまっていたら大変だ。つかさはこの部屋で帰ってくるのを待って。母さん、行こう」
父が脱いでいたコートを着込んで母に声をかける。
母がつらそうな顔でハンドバッグの取っ手を握りしめた。


職員と両親がホーム内を探したが、ふたりの姿はどこにもないことが判明した。やはり、外に出て行ってしまったのだ。
私は時計を見、温度計を見た。午後三時、摂氏十七度。室内は暖房で温かいが、外の気温は一桁台だろう。雪の翌日とて天気は快晴だが、山肌のホームなので外気温はあまり高くならない。
両親はふたりがどこへ行ってしまったのか、職員とともに検討を始めた。
「受付に人がいない時間が一瞬ありました。その隙に出て行ったのではないかと思われます」
「父が律を連れていきそうな場所ですと、どこでしょう?」
「また近くの山でしょうか? 今の時期なら早咲きの桜がなくもないかも」
「この間、俳句同好会の句会で行った公園もお気に入りでしたよ」
「最近、近所のコンビニの羊羹をよく食べていました」
候補はいくつか出たが、どれも決め手に欠ける。
いっそ警察に連絡しようか、いや、まだ早い、自分たちで探そう、とすったもんだしているうちに、母が戦線離脱して、少し離れて経緯を見守っていた私の隣にやってきた。
はぁ、と彼女はため息をつく。
「まったく。お祖父ちゃんも、困ったものね。思いついたらすぐ行動に移しちゃう人だから、あと先のことを考えてくれなくて、いつもこっちを慌てさせる」
ちら、と私を見て、苦笑した。
「そんなに怒らないで。――お祖父ちゃんも、悪い人じゃないの。前にお祖父ちゃんが律を連れていなくなった時、私もお父さんも、律に悩みがあるなんて、ちっとも気づかなかった。一緒に暮らしてるのにね」
ふ、と自嘲して、
「――でも、月に一回、会うだけのお祖父ちゃんは、すぐに律の悩みに気づいて、桜の下に連れ出して、話を聞いてくれた。それが、どれだけあの子を助けたか。どんなに、あの子を安心させたか。――今回も、そうなのかしら」
母は瞳を曇らせた。
「私は、また、律の何かを、見落としていたのかしら――」
私は居心地悪く、母の独白を聞いていた。
後じさりすると背中に備え付けの棚の角が当たったので、振り返って何気なく棚の上に散らばったノート類を整理する。達筆な字で年号と日付が書いてあるところを見ると、祖父の日記のようだ。
私は思いついて、最新の日付の書かれているノートを開いた。昨日の日付を見つけ、読む。
『政さんと将棋を打った。なかなか好敵手である。惜敗した。羊羹を食った。』
……手掛かりになりそうな記述はない。日付をさかのぼった。
『有志でカラオケ会を執り行った。よし子さんが「津軽海峡冬景色」を熱唱。定吉さんが北島三郎を歌った。両者歌声よし。感心した』
『公園を散歩した。昨日の雪が積もっていた。雪の下に福寿草が咲いていた。綺麗だった。皆に見せたいと思った』
一週間前の記述を見て、ひらめいた。
皆に雪の下の福寿草を見せたい。
一週間前と同様に、今日もうまい具合に雪が積もっている。
祖父は、公園の福寿草を律と一緒に見に行ったのでは?
思いついたら、動かずにはいられなかった。
母にノートを押し付け、脱いで抱えていたコートを着ながらドアへ向かう。
この衝動性は、私が祖父に似ている唯一の点で、私のコンプレックスのひとつ、どうしても治せない最大のものだった。
ドアに手がかかった瞬間、しかしカーキ色のジャケットが眼前に現れて私は足止めされた。
「やあ。久萬木さんがいなくなったそうですね。ひとつ私にも捜索の手助けを――」
陽気に声をかけてきたのは元探偵の草鞋だった。
「どいてよ、へっぽこ探偵!」
怒鳴りつけて脇をすり抜ける。
私は振り向きもしなかったので、背後でノートを抱えた母が草鞋に事情を説明しているのに気づかなかった。


職員のひとりを捕まえて聞いた、祖父が一週間前に行ったという公園へ向かう。
桜福園から歩いて十分もしない場所にある自然公園で、祖父は俳句同好会の句会でここ訪れたらしい。
入口に建つ管理小屋の管理人に福寿草の場所を聞くと、まだこの仕事に就いて間もないと思われる老人は福寿草を知らなかった。
「お正月によく見る黄色い花です。丸っこくて、花弁が大きくて、茎や葉っぱが目立たなくて、花だけぽんと土の上に咲くように見える」
説明すると、その花なら公園の奥にあるという。
詳しい場所を聞き、走って向った。
公園内には、やはり雪が積もっている。白に常緑樹の緑が映えて綺麗だ。煉瓦で囲まれた花壇には色とりどりのパンジーが咲き、少し離れたところの落葉した広葉樹林は雪の花を咲かせていた。
目印の看板で道を曲がって、目指す福寿草の花壇へ来た。
黒い土に雪がかぶさり、その隙間から鮮やかな黄色い福寿草がいくつも顔を覗かせている。
見ているだけでほっこりする美しい図だが、それを眺めているべき車椅子の老人と少年は見当たらない。
私は戸惑った。
お祖父ちゃんと律がここにいるんじゃなかったの?
私の思い違いだったの?
二月の空は高く青く、私は茫然と空を見上げた。
風が冷たい。
広い自然公園で、自分が一人ぼっちに思えた。
……どのくらい時間がたっただろうか。
私は踵を返してもと来た道を戻った。
祖父と律だけでなく、私までいなくなってしまって、両親は心配しているだろう。早くホームに戻らなければ。
とぼとぼと歩いていると、道の向こうから母と父、そしてなぜか草鞋がやってくるのが見えた。
「つかさ、やっぱり、ここに来たの」
母が話しかけてくる。
「お母さん、お父さん。……草鞋さんも、どうしてここに?」
尋ねると、草鞋が脇に抱えていたノートを示した。
「久萬木さんの日記を読んだら、公園の福寿草を皆に見せたい、とあったからね。律くんとここに来たのでは、と考えたんだ」
私は首を振った。
「福寿草の花壇には、お祖父ちゃんも、律も、いなかったわ。ふたりともどこへ行っちゃったのかしら」
「え? しかし……」
草鞋は私の言葉に眉をひそめ、それから、思いついたように頷いた。
「つかささんは、展示されていた久萬木さんの俳句を読んでいないんだね。だから、普通の福寿草と勘違いしたんだ。ふたりが見に来た福寿草は、おそらく、こっちだ」
草鞋は言うと、手で方向を合図して道を曲がった。私が向かった花壇とは方向が九十度違う。
「久萬木さんの俳号は知っているかな?」
歩きながら、草鞋が私に問う。
「知らない。何?」
「萬信だ。本人は適当に付けたと嘯かれているが、よろずのことに信を置く――いい俳号だと思うよ」
私はいらいらした。
「何が言いたいの?」
「蒼白の空へ顔あぐ秩父紅(ちちぶべに)」
草鞋が不意に言った。
私は虚を突かれ、それから、それが祖父が眺めていた俳句のうちのひとつだと思い出した。
「それがお祖父ちゃんの俳句?」
草鞋が頷く。
「秩父紅って、何?」
「秩父地方固有の福寿草の品種名だ。福寿草は一般的に黄色い花のイメージだが、赤や白の珍品もある。今確認されているのは、だいたい四〇種くらいだったかな。秩父紅はそのひとつで、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせる福寿草だ」
福寿草にそんなに種類があるとは知らなかった。
後ろを歩く両親を振り返ると、
「俺も、それは知らなかったな。秩父出身なのに」
と父が悔しそうに感想を漏らした。
「私も秩父に珍しい福寿草があるのは知っていたけれど、品種名までは知らなかったわ」
母が言った。
草鞋によると、秩父でも群生地は限られるという。
その数少ないひとつがこの公園なのだ。
祖父がそこまで知っていたかは疑わしいが、秩父に愛着のある彼のことだ。どこからか情報を入手し、俳句にしたためたのだろう。


傾斜の緩い坂を登ると、木立の向こうに、黒のダウンコートを着た少年と、彼に車椅子の取っ手を握らせている、車椅子に乗った老人が見えてきた。雪の積もった花壇に向かい、ふたりは何事か話しているようだ。
「律! 親父!」
父がふたりを呼ぶ。
彼らは同時に振り返って、祖父は目を細め、律は逆に目を見開く。
それを見たら、私は無性にイライラして、小走りで律のもとへ駆けていった。
「馬鹿! いきなりいなくなったらみんな心配するでしょ、そんなこともわかんないくらいアンタは馬鹿なの?」
思い切り怒鳴ってやったのに、律は目をぱちくりとさせて、何の反応もしない。
私はにやにや笑っている祖父に向き直って、
「お祖父ちゃんも、出かけるならちゃんとどこ行くか言わないと。どれだけ探したと思ってるの?」
祖父はしかし、私の剣幕など意に介さないようで、
「まぁまぁ。落ち着け、つかさ。見ろよ、秩父紅が綺麗だろ?」
指さす先を見ると、草鞋が言った通り、オレンジ色の福寿草が黒い土の上にポンと咲いていた。周囲の解けかけた積雪の白が福寿草のオレンジと土の黒をよりいっそう映えさせている。
私は言い返せず、もにゃもにゃと黙って、空を見た。
先ほど見上げたのと同じ空なのに、なぜか、青があたたかく見えた。
父と母が律と祖父に話しかけ、事情を訊いている。
その声はいたわりと慈愛に満ちていて、私は、突然、あの俳句と日記の意味が分かった。
『ひとりで見る福寿草と空は綺麗だが淋しい。家族と一緒に見れば、きっともっと綺麗だろう』
私は祖父と律の様子を盗み見た。
祖父は相変わらず、悪びれもせず片手をあげて謝りながら、隙を見て、こそっと律にささやいた。
「ホラ、探しに来てくれただろ。姉ちゃんがおめぇを嫌ってるなんて、気のせいだったろ?」
律は無言で頷く。
私は律が驚いた理由を察して腹が立ったが、そう思わせてしまった自分の言動に思い当たり、いささかばつが悪かった。
しかし、突然優しくなることもできず、不器用に律を小突くしかできなかった。
「雪解けの福寿草か。確かに、美しいものだな」
いつの間にか草鞋が私たちの隣にいて、感心して花壇を眺めていた。
「雪解けも福寿草も春が近いことを知らせてくれて、心が浮き立たつね。この秩父紅なんか、太陽のように明るい色をしているじゃないか。まるで、未来に良いことが待っていると告げているようだ」
ずいぶん気障なことを言う探偵だ。
だが、悪くない。
私も両親も祖父も律も、穏やか気持ちで、雪の下の秩父紅をしばらく眺めていた。

(おわり)