便利屋AIAIの事件簿⑷~秩父果物農場刑事訪問事件~

便利屋AIAIの事件簿⑷〜秩父果物農場刑事訪問事件〜

ビニールハウスの中には、イチゴの苗を植えられた一メートルほどの高さの栽培棚がスペースいっぱいに立ち並んでいた。棚の上部にはもっさりと緑の葉が生い茂り、伸びた蔓の先には色づき始めたイチゴがどっさり鈴なりに実っている。延々続くイチゴ畑は、まるで夢の世界のように子どもたちの目に映っていた。
「すごい、いちごいっぱい!」
と目を丸くして礼門(れいもん)が言った。
「いっぱい食べていいの?」
と今にも舌なめずりせんばかりに来夢(らいむ)が目を輝かせる。
便利屋AIAIアルバイト、札所巡(ふだしょ・めぐる)が春休みの一日に五歳の甥と四歳の姪を連れて訪れたのは、国道沿いの農園「秩父果物農場」である。リンゴやブドウ、イチゴなど様々な果物を栽培しているこの農園は、春にはイチゴ狩り、秋にはブドウ狩りを観光客向けに提供している。
巡がこの「秩父果物農場」を訪れたのには理由があった。
「アイアイのおじさんだ!」
礼門が叫んで駆け寄った先にいる、ひとりの男がその理由である。
イチゴ狩りの会場であるビニールハウスの入口で仁王立ちをしている、背の高い痩せたぎょろ目の男──便利屋AIAI所長、草鞋勝也(わらじ・かつや)。
現在は助っ人で「秩父果物農場」のイチゴ狩りの案内役をしている作業員姿の彼が、巡とその甥姪をイチゴ狩りに誘った張本人だった。
「レモンくんにライムちゃん、いらっしゃい。相変わらず、叔父さんに似てなくてかわいいねぇ」
草鞋はにっこり笑って子どもたちの頭に両の掌を乗せた。
猿のアイアイにうり二つの顔をした草鞋に言われたくないと、巡はぶすっとした顔を隠しもせず彼に挨拶したが、草鞋は気にも留めずに子どもたちを歓迎するのに忙しい。
「あなたが札所巡くん? カメラマンをする黒矢(くろや)です。今回はモデルを引き受けてくださって、ありがとうございます」
草鞋の隣にいるスレンダーな美女が巡に話しかけてきた。女性にしては身長が高く、黒髪でロングヘア、色白で意志の強そうな眉をしている。全身を体の線にフィットした黒いワンピースで包んでおり、青いレギンスが細い脚を強調していた。首にひもでコンパクトなデジタルカメラとカメラケースをかけ、白い手で不格好にカメラ本体を包んでいる。
「ふ、ふ、札所巡です。よろ、よろしくお願いします」
女性慣れしていない巡は思わずしどろもどろの対応になったが、正確には、モデルになるのは甥姪のふたりのみである。
礼門と来夢は、この春の「秩父果物農場」のイチゴ狩りのポスターのモデルとなるため、この日、イチゴ畑へやってきたのだった。
「いやぁ、ふたりとも、目はでかくてくりくりしているし、顔は丸いし、体も丸々として、いかにも子ども! という感じで本当にモデルにぴったりだ」
草鞋は褒めているのかいないのかわかりにくい形容で子どもたちを褒めると、黒矢に指示されてふたりをイチゴ畑の奥へ連れて行った。
巡は黒矢の後をついてイチゴ畑の奥に入り込みながら、
「言われた通り、普段の格好で連れてきましたけれど、あんな田舎の子どもじみた格好でよかったんですか?」
と尋ねた。
礼門と来夢はそれぞれ水色とピンクのトレーナーに青のオーバーオールジーンズという服装なのである。
「いいんですよ。気軽に子連れで来られるイチゴ農園というのがコンセプトですから、あまりかしこまっていては不自然なんです」
黒矢はにっこり笑うと、あらかじめ決めてあったらしい撮影ポイントに前方の三人が到着したと見るや、子どもたちに位置取りの指示を始めた。草鞋は写真のフレームに移りこまないように、素早く栽培棚の列から抜け、ビニールハウスの隅に寄る。
巡は草鞋の隣に行くと、彼と並んで、早くも始まった撮影の様子を眺めた。
草鞋が話しかけた。
「君のところの甥っ子姪っ子は相変わらず人見知りをしないなぁ。もうリラックスしてイチゴを食べ始めている」
「兄夫婦に似て、食い意地が張っていますからね。写真を撮られる緊張感よりもイチゴを食べられる嬉しさの方が大きいんですよ」
「黒矢さんも子どもたちをノせるのがうまいな。普段は東京の小さな会社で事務をしているというが、身近に小さい子どもがいるんだろうか」
巡はおや、と思って草鞋に尋ねた。
「黒矢さんは『秩父果物農場』の社員じゃないんですか?」
「社長の娘さんの知人らしい。カメラが趣味だというので今回の撮影を任されたのだとか。撮影料はこの農場の手作りワインだそうだ」
「……うちの事務所といい『秩父果物農場』といい、どこもお金には苦労しているんですね」
巡は思わず同情した。
「……さすがに給料を現物支給したことはないぞ」
草鞋は内心汗をかきながら巡に抗議した。
実は今回のモデル代はイチゴ畑での三〇分食べ放題三人分なのだが、まだ巡にその事実を告げていないのであった。

「えー、では今から三〇分、時計の長い針が六に来るまでが制限時間です。その間はイチゴ取り放題、食べ放題! ですが、食べていいのは赤く熟したイチゴだけです。白いイチゴは食べちゃいけませんよ」
数十分後、草鞋はビニールハウスの入り口で巡ら三人を含めた農場の客七人にお決まりの口上を述べていた。
ポスターの撮影も終わり、モデル代の支払いを兼ねたイチゴ食べ放題の時間が始まったのである。
草鞋は七人に一個ずつプラスティックの容器を配り、二つ空いている円形のくぼみのうち、ひとつを指さして、
「ヘタ入れと書いてある方にイチゴのヘタを、もう一方に練乳をお好みで入れてください。練乳は受付で購入されましたか? まだの方はこのタイミングで私から購入を。一本二百円です」
「めぐちゃん、買って!」
礼門からのリクエストで、巡は練乳を草鞋から受け取った。
「携帯電話、スマートフォンは鞄から出して手でお持ちください。そこの方、ウェストポーチをつけたままでは通りすがりに実ったイチゴを傷つける恐れがあるのでロッカーに預けて。お荷物を入れたロッカーのカギはなくさないようにしてください。貴重品が盗まれても、当方では責任を負えません」
カップル客のうち、ウェストポーチを身に付けていた男性客が草鞋の言に従いビニールハウス入口の横のロッカーに向かった。女性の二人連れは既にロッカーに鞄をしまっていたので、購入していた練乳をプラスティック容器に絞りだしていた。
巡もまた甥姪の容器に練乳を絞り入れながら、
「ふたりとも、さっき撮影しながらイチゴたくさん食べたよな。今度はそこそこにしておくんだぞ」
「やだ、まだたくさん食べる!」
「めぐちゃん、練乳もっと入れて!」
子どもたちのブーイングに耐えながら、巡はそっと自分の容器にもたっぷりと練乳を絞り出した。
「少し時間がたってしまいましたね。では、時計の針が七のところまで制限時間を伸ばしましょう。黄色い糸で入れないようになっている箇所には立ち入らないでください。食べ放題の様子を見て、イチゴが足りないようだったら入れるスペースを拡大します」
草鞋は栽培棚の間にところどころ張ってある黄色い糸を指して言った。イチゴの栽培棚のスペースを区切って分けて、時間ごとに違う栽培棚を観光客に開放することで、後から来る客のために熟したイチゴを残しておいているのだ。。
草鞋の合図を皮切りに、巡ら七人はビニールハウス内に散っていった。

「めぐちゃん、練乳おかわり!」
来夢がとたとたと巡に近づいてきたのは食べ放題開始から十五分ほど経過したころだった。
巡は甥姪の様子を遠目に眺めながらイチゴ狩りを堪能していたのだが、早くもイチゴで腹がいっぱいになりつつあった。土曜の午前中という熟したイチゴがもっとも栽培棚にぶら下がっている時間帯だったせいもあって、手に取るイチゴすべてが甘く、大きく、みずみずしかったのだ。
「ライム、そんなに食べてお昼ご飯入るのか?」
巡は疑い深く来夢に尋ねたが、大粒のイチゴを口に持っていきながらだったので、説得力はみじんもなかった。
「いいよ! ライム、イチゴがお昼ご飯でも!」
「そういうわけにはいかないんだよ。お昼までちゃんと食べさせるって、兄貴に言って連れてきたんだから」
「めぐちゃん、抱っこ!」
場違いな要求をしてきたのは、兄であるはずの礼門である。
「なんだ、レモン。疲れたんなら外のベンチに──」
「ちがう、抱っこ!」
地団太を踏むので、仕方なく巡が礼門を抱え上げると、礼門は栽培棚のイチゴの苗の中に手をやって、根元を覗き込もうとする。
「レモン、そんなとこにイチゴはないぞ?」
「だって、おねーちゃんが見てたもん!」
はて何のことだ、と巡が見回すと、数メートル向こうの栽培棚で、カップルの男女が食べかけのイチゴのかけらを苗の根元に隠しているのを目撃してしまった。熟していないイチゴでも摘み取ったのだろう。礼門はこれを見てしまったのか。
(マナー違反だ。行儀の悪いカップルだな)
巡は不快な気持ちになったが、わざわざ草鞋に言いつけるのも面倒なので放っておくことにした。
カップルのさらに奥では、二人連れの女性客が自撮り棒でイチゴ狩りの記念写真を撮っている。それぞれ摘み取った大粒のイチゴを顔の横に寄せ、インスタ映えを狙っているようだ。
(あれでは小顔効果も何もあったもんじゃないな……)
巡は他人事ながら心配になった。
礼門を地面に降ろしながら、巡は視界の隅に黒矢の姿を捉えていた。黄色い糸の向こう側にいるのは、摘み取られる前のイチゴの写真を撮るためだろう。黒矢は頭上に天井からぶら下がる「このあたりのイチゴが食べごろです」の看板にもカメラを向け、熱心に写真を撮っていた。

十二時に近づくにつれ次から次へとやってくるイチゴ狩りの客をさばいていた草鞋の前に、突然の訪問者が現れたのは巡らの食べ放題が終わる頃合いだった。
「秩父中央署の美濃山(みのやま)です」
「同じく加佐山(かさやま)です」
地味な灰色のスーツを着たふたりの刑事は、草鞋のきょとんとした顔を見上げながら尋ねた。
「今朝、このあたりでこのような女性を見かけませんでしたか?」
草鞋にずらずらと示されたのはひとりの若い女性が写った複数枚の写真である。
ある一枚に写っているのは茶髪にウェーブがかったセミロングのツリ目の女性、ある一枚に写っているのはガングロで白髪のいわゆるヤマンバギャル、ある一枚に写っているのは黒髪ショートカットに一重瞼の地味な女性……と写っている女性の印象はずいぶん違う。
「はて、どの女性ですかな?」
「このような女性です」
刑事の返答に、草鞋は眉を寄せた。
草鞋の困惑を見て取ったのか、眉の太い美濃山刑事が言葉を付け加えた。
「信じられないかもしれませんが、実はこれら写真の女性は全員同じひとりの女性でして」
細面の加佐山刑事が言葉を継いだ。
「整形しているわけではなく、アイプチやファンデーションなど化粧を駆使してこのようにさまざまに顔を変えているのです」
「はぁ……」
まだ刑事たちの言いたいことがわからない。
草鞋の表情を読み取り、刑事たちはこそっと声を潜めた。
「この女性──いや、この女は多乃原笑窪(おおのはら・えくぼ)といって、秩父出身の窃盗の常習犯なのです。今は池袋を拠点に活動しているはずなのですが、どうやら今朝、秩父に戻ってきたとの情報がありまして」
「ほぉ」
草鞋は目を細めた。
「多乃原の年の離れた弟がこの春、高校を卒業して、海外に留学するんです。どうやってその情報を知ったのかわかりませんが、その前に一目だけでも会おうと帰ってきたのではないか、というのが我々の見方です。しかし、その弟の周辺を探っても姿が見えない。多乃原の実家はこの近所なので、機会をうかがっているのではないかと考え、今、聞き込みをして回っているのです」
「なるほど」
草鞋は頷いた。
あらためて示された写真を眺めてみると、確かに、印象はそれぞれだいぶ異なるがどれも同一人物と思われる特徴を備えている。
だが、その特徴を頭に入れて、このあたりで見かけた女性の顔を脳内に思い浮かべてみても、どれも一致しなかった。そもそも、普段は女性の顔をじろじろ眺めたりしない。
「草鞋さん、どうしました?」
黒矢の声がしたので振り向くと、刑事たちがさっと写真を彼女の視線から隠した。
妙齢の女性ということで、探している人物かもしれないという警戒心がそうさせたのだろう。
「窃盗の常習犯がこの近辺に現れるのではないかというので、刑事さんが聞き込みを行っているそうですよ」
草鞋が答えると、黒矢は驚いた表情をして、
「秩父のような平和な田舎にも、そんな人がいるんですか。怖いですねぇ」
と身を震わせた。
「そういえば黒矢さん、ご出身は?」
草鞋がさりげなく尋ねる。
「私は生まれも育ちも東京です。二十三区内をあちこち移動していますけれど」
「なるほど。都内と比べられると、秩父が田舎に感じられて当然だ」
草鞋は穏やかに笑った。
「撮影が終わりましたので、私は隣の事務所でパソコンに写真を映しながら打ち合わせをしてきますね」
黒矢はケースに入れたデジタルカメラを掲げると、ビニールハウスを出ていく。
草鞋は刑事らに向き直った。
「刑事さん。申し訳ないですけれど、私には心当たりはないですね。隣の建物にイチゴ狩りの受付がありますから、そちらで訊かれたらどうですか」

食べ放題の時間を終えて巡が甥姪を連れて草鞋のもとへ近づくと、草鞋は難しい顔をして考え込んでいた。
「どうしたんですか所長。そう顔が恐いと客が逃げますよ」
「客は既に受付で料金を払っているから私を見たぐらいで逃げない」
草鞋は反射的に言い返して、巡を見ておや、という顔をした。
「もう食べ放題が終わったのか。早いな」
巡は呆れた。
「監視役も兼ねてるんだからちゃんと見ててくださいよ」
「しかし、イチゴ狩りでそうマナー違反者も出ないだろう」
「いや、意外といますよ」
巡はそう言って、先ほど目撃したカップル客のマナー違反を話した。
「……ほぅ?」
草鞋の目が光る。巡はぎょっとして、
「でも、今さら注意できないですよ。だいぶ前のことですから」
「それはどうでもいい。しかし、証拠が足りないな……」
草鞋がまた思案にふけったところで、不意に巡の腰に甥姪がどーんと抱き着いた。
「めぐちゃん、お昼、マク○ナルドがいい!」
「わらじかつバーガー食べたい!」
「はぁ?」
巡は虚を突かれた。
「マ○ドナルドにわらじかつバーガーなんてないだろう。わらじかつバーガーがあるのはM○Sバーガーだ」
わらじかつバーガーはご当地ハンバーガーとしてM○Sバーガーが期間限定で商品化しているハンバーガーである。M○Sバーガーが店舗として入っている秩父唯一の総合商業施設で食べられると巡は聞いたことがある。
草鞋が興味深そうに尋ねた。
「ふたりとも、どうしていきなりわらじかつバーガーを食べたくなったんだい? イチゴでお腹いっぱいじゃないのかな」
「だって、黒いおねーちゃんが二人組のおねーちゃんに、とっくにマックでわらじかつバーガーを食べたって言ってたよ!」
「ライムもレモンおにいちゃんもまだ食べてないのに!」
「だから、○クドナルドにわらじかつバーガーは……」
巡は甥姪を説得しようとして、異様な熱気を放つ草鞋の様子に気が付いた。
「しょ、所長……?」
「──証拠が見つかった」
草鞋はつぶやくと、不敵に笑った。

黒矢が打ち合わせを中断して建物の裏手に出ると、関係者が休憩するために置かれている自動販売機横のベンチに、草鞋が座ってコンビニの弁当を食べていた。
「昼休みですか?」
黒矢の質問に草鞋は頷き、反対に尋ね返した。
「黒矢さんこそ、彼氏からの連絡待ちですかな?」
草鞋は黒矢の手の中のスマートフォンを箸で指す。黒矢は曖昧に頷いた。
草鞋はふむ、と頷くと、弁当箱を脇に置いて、作業服の胸ポケットから小さな機械を取り出した。
「しかし、せっかく渡そうとしたコレは、お目当ての相手に渡っていないのですよ、多乃原さん」
「……え?」
草鞋の言葉に、黒矢の柔和な表情がこわばる。
草鞋は続けて言った。
「最初に奇妙だと感じたのは、ポスターを撮影する前、あなたが首にデジタルカメラとカメラケースの両方を別々に下げていたことです。ケースがあるんだから、カメラを入れてしまえばいいじゃないですか。事実、撮影が終わって事務所に戻るとき、カメラはケースに入っていました」
黒矢の視線は、草鞋が取り出した機械に固定されて動かない。
「しかし、ポスター撮影前のカメラケースに、デジタルカメラ以外の何かが入っていたのなら、そりゃあ、デジタルカメラは入れられませんよね」
草鞋の手の中で銀色の機械が光る。
「ど、どうしてソレを草鞋さんが持っているんです?」
狼狽する黒矢の疑問に、草鞋は隣のビニールハウスを指さした。
「イチゴの栽培棚の苗の根元に隠されているのを見つけました。よく考えましたね、まさかイチゴの苗に隠して超小型スマートフォンを誰かに渡そうとするなんて、誰も思いつかない。『イチゴが食べごろです』という看板の下の苗に隠せば目印になるし、他の客は食べごろのイチゴに目が行って、苗の根元を探ろうなどとは考えない」
草鞋は手にした超小型スマートフォンをくるくると回して見せた。
「先ほど調べましたが、これは2.45インチ(240×432)の最新型かな。手のひらに収まるサイズで、これならデジタルカメラのケースに十分入りそうだ」
黒矢は黙り込んでしまった。
「渡そうとした相手はおそらく弟さんでしょう。最後の思い出だとか理由をつけて彼がイチゴ狩りに来たとしても不自然ではない。直接会うのは危険すぎるから、証拠の残らない専用のスマートフォンを渡すことで連絡手段にしようとしたんでしょうが、まぁ、少々運が悪かったですな」
草鞋は超小型スマートフォンをベンチの上に置く。代わりに弁当を手に取って再び食べ始めた。
「そ、それだけなら」
黒矢がやっと反論した。
「私が多乃原笑窪という証拠にはならないじゃないですか。誰かにスマートフォンを渡そうとしただけでしょう?」
「しかし、あなたは出身地で嘘をついた」
草鞋は口元にご飯粒をつけながら指摘する。
「子どもたちが言っていましたよ。あなたが二人連れの女性客に『とっくにマックでわらじかつバーガーを食べた』と言っていたと。しかし、マクドナ○ドでわらじかつバーガーは商品化されていない。正確にはあなたが言った言葉遣いは『とっくにマックで』ではなく『とっくのまっくに』だ。とうの昔に、という意味の秩父弁です。どうして都内育ちのあなたがそんな秩父弁をごく自然に使っているのですか? それは、あなたが秩父出身者だから。そしてそれを刑事の前で隠したのは、あなたが多乃原笑窪さんだからだ」
草鞋は言い終えると、缶のお茶を口に運んでひと心地ついた。
コンビニの袋に空いた弁当箱や割り箸を放り込み、口を縛る。
「今ならまだ先ほどの刑事さんたちが近所にいるでしょう。自首をお勧めしますよ」
「私が逃げないという確証でもあるんですか?」
草鞋が捕まえようとしないことを疑問に思ったのか、黒矢──多乃原笑窪が挑戦的な表情で言う。
「私は女性に暴力をふるう趣味はありませんし」
草鞋はにっこりと笑った。
「刑事の前に堂々と姿を現せるほど自分のメイクの腕に自信を持っているあなたが、正体を見破られた後もその顔で過ごせるほど恥知らずではないと考えています」
多乃原は怒りでかっと頬を赤くしたが、何も言い返さずに建物の中へ引き返していった。
「ふぅ」
残された草鞋は缶のお茶をひとりあおった。
「プライドの高い人物で助かった」

「見てください、所長。『カメレオン窃盗犯、秩父で自首』ですって。実録『七つの顔を持つ女』ですよ。かっこいい!」
翌日。便利屋AIAIの事務所で新聞片手に興奮しているのは事務員の釈氏奈津子(しゃくし・なつこ)である。黒髪ロングヘアに広い額、切れ長の目、色白の肌にすらりとした肢体が魅力的なかなりの美女だが、その美女はなぜか今、後輩から疑いのまなざしを向けられていた。
「どうしたの札所くん? 私の顔に何かついてる?」
奈津子を見ながらスマートフォン片手に硬直しているのは、AIAIアルバイトの札所巡であった。彼のスマートフォンの画面にはネットニュースが表示されており、件の窃盗犯逮捕の一報が報道されている。容疑者の映像として、自首直後のノーメイクの多乃原笑窪の写真も載っていた。
(この……な顔の女の人が、昨日の黒矢さんと同一人物ということは……。ひょっとして奈津子さんも……?)
「札所くん? なんなのその顔? おーい?」
奈津子が柳眉をひそめていくら呼んでも、巡は返事をしない。
恋人いない歴=年齢の若者は、考えすぎとも知らず、女性のメイク術の恐ろしさにおののいていた。

(おわり)