便利屋AIAIの事件簿⑸~秩父銘仙まちなかデートの謎~


便利屋AIAIの事件簿⑤~秩父銘仙まちなかデートの謎~

伊佐間勇輔(いさま・ゆうすけ)がその二人組に目を止めたのは、彼女らが目にも鮮やかな着物姿で秩父の街中を歩いていたからだった。
四月の初め、春というよりむしろ初夏のような日差しの日曜日のことである。
勇輔は隣の席に座る甲山岳史(こうざん・たけし)の肩をつついた。
「なぁ、あのふたり、ちょっと声をかけてみないか」
喫茶店兼ビアホールの店のカウンターで昼間から地ビールをあおっていた岳史は、呆れたようなまなざしで勇輔を見た。
「この間フラれたばっかりだってのに、もう次のターゲットを見つけたのか。三十過ぎのいい歳なんだから、少しは落ち着けよ」
忠告めいたことを言いながらも岳史は店のウィンドウのすぐ近くを歩くふたりを見て、意外そうに眼を見開いた。
「へぇ、秩父銘仙か。今時珍しい」
秩父銘仙とは秩父地域一帯で作られている織物である。仮織りしてから染色する「ほぐし捺染」と呼ばれる技法により、大胆でデザイン性の高い柄を作ることができ、明治時代後期から昭和初期にかけては、あまり高級でない糸を使用し安価なこともあって、普段着として全国で流行した。
秩父地域には現在もいくつかの秩父銘仙の工房がある。文化施設として秩父銘仙センターが設置され、製造過程の展示や機織り体験、着付け体験が観光客に人気を博している。
ウィンドウの外のふたりは見たところ二十代半ば、ひとりは身長一五〇かそこらと小柄で茶髪のふんわりショートカット、ほんのりと赤い地に大ぶりの花が描かれた銘仙を身に付け、朱色の袴を履いている。もうひとりは一六〇ほどの身長で黒髪、セミロングのそれを後頭部でひとつにまとめ、着ている銘仙は紫の矢絣、紫の袴だ。
「ふたりとも可愛いし、いかにも着物美人だろ。行こうぜ」
勇輔は岳史を急がせて勘定を済ませると、店の外に出てふたりに声をかけた。
「やぁ。ふたりで秩父観光かい? よかったら案内しようか?」
女性たちは一瞬警戒心をあらわにしたが、勇輔の背後から現れた岳史の顔を見てすぐさま頬を赤らめた。
一〇人中一〇人が並と評価する勇輔と違って、岳史は日焼けした肌に彫りの深い顔立ちが特徴的な美男子である。彼が未だに独身なのは秩父七不思議のひとつだと勇輔は思っている。実際、話しぶりも穏やかで性格も温厚篤実、大学卒業後地元で立ち上げた事業も成功しており、非の打ちどころのないイケメンだ。
「それ、秩父銘仙だよね。わざわざ秩父で着てくれるなんて、うれしいな。どこから来たの?」
爽やかさ一〇〇パーセントの笑顔で岳史が問いかけると、小柄な方の女性が顔を真っ赤にして「……さいたま市です」と答えた。既に目がハートだ。片手の巾着の紐をよりよりと指でいじり始めて、緊張しつつも声は熱っぽい。これは惚れやすいタイプと見た。
「じゃあ県内から来たんだ。これからどこへ行くの?」
岳史は微笑んだまま質問を続行する。
勇輔は岳史の顔面から目を離そうともしない小柄な女性を見て、こちらの女性は無理だな、と諦めた。もう岳史しか目に入っていない。
もうひとりの女性に目をやると、彼女はもじもじしながら連れの女性と岳史、そして勇輔の様子を窺っていた。小柄な女性と違って、男性が苦手なタイプなのかもしれない。
彼女のハンドバッグを持っていない方の細い手首に女性には似合わない武骨な腕時計がはまっていて、勇輔は意外に思った。
「ずいぶん大きな腕時計だね」
女性は勇輔の言葉に恥ずかしがり、さっと手首の腕時計を隠したが、それを見て岳史は逆に彼女の腕時計に注目した。
「男物のアンティークっぽいね。誰かからもらったものかな」
女性は腕時計を隠したまま、顔をうつむかせて、
「……祖父の形見です。有名な会社のものらしいですけど、私はよくわからなくて」
消え入りそうな声で言った。
「へぇ、いいね、そういうの。孫娘に自分の腕時計を身に付けてもらえるなんて、天国のおじいさんは幸せだろうな」
岳史がそう言うと、女性は恥ずかしがりながらもかすかに笑った。
「あの、私たち、秩父神社に行こうとしているんですけれど、案内していただけますか?」
小柄な女性がもうひとりに岳史の注目を奪われたと思ってかやや大きな声で岳史に話しかけた。
案内も何も秩父神社まではここから一本道で歩いてすぐなのだが、彼女の目的は案内ではないだろう。
勇輔も異論はないので岳史の肩をつつき「もちろん」とふたりに笑って見せた。
「この銘仙はおばあちゃんの着ていたものなんですよ。祖母は秩父出身で、祖父と結婚して浦和の方へ移住したんだそうです」
秩父神社へ向かいながら、小柄な女性が岳史に向かって言った。

話しているうちに、小柄な女性は武田穂波(たけだ・ほなみ)、もうひとりの女性は稲葉愛佳(いなば・あいか)と自己紹介した。ふたりは大学の同期で、秩父に来たのは初めてらしい。
「何年か前に秩父を舞台にしたアニメがあったじゃないですか。それを見て以来、一度来てみたかったんですよね」
穂波が秩父の銘酒・秩父錦のジェラートを口に運びながら言う。秩父神社前のジェラート店で購入したものだ。四月とは思えないほど気温が高かったので、ジェラートはひんやり冷たく勇輔ら四人の舌に溶けた。
秩父神社の境内はこんもり茂った柞の森からの風が心地よく吹き抜け、葉擦れの音がさわさわと耳を楽しませた。
「あのアニメは秩父でも評判がいいよ。おかげで観光客も増えたし」
勇輔は応えながらちらちらと愛佳の様子を窺った。
穂波は人懐こい性格らしく岳史とも勇輔とも愛想よく会話してくれたが、愛佳は人見知りするたちなのか頷いたり愛想笑いしたりはするものの穂波に比べて言葉少なだ。
しかし、穂波にはない落ち着いた雰囲気が勇輔には好ましく感じられた。
「ふたりとも、和菓子は好きかな? ジェラートの後になんだけれど、連れていきたい和菓子屋があるんだ。秩父ではけっこう有名で――」
岳史がこう切り出した時だった。
勇輔は女性ふたりの間に素早い視線の交換を見た。
一瞬のことだったので岳史は気づかなかったのだろう、のんびりとおすすめの和菓子の説明をしていたが、温厚な彼も愛佳の断りの言葉にはさすがにがっかりとした表情を隠せなかった。
「ごめんなさい、私、ジャガイモはあのもさもさした感じが苦手で……。他に行きたいところがあるので、穂波だけ連れて行ってあげてくれますか」
勇輔は慌てて愛佳の言葉に乗った。
「じゃあ、俺が稲葉さんを案内しますよ。味噌ポテ堂の和菓子はもう全種類食べたことあるし、秩父に住んでいればいつでも行けるし。稲葉さん、いいですか」
真剣な面持ちで愛佳を見つめると、彼女はためらったかのように一瞬視線を外したが、やがてぐっとこぶしを握って頷いた。
「伊佐間さん、ありがとうございます。お願いします」

岳史と穂波が連れ立って秩父神社を出て行ってから愛佳に尋ねると、勇輔が察した通り、愛佳は友人に気を利かせて彼女らをふたりきりにしたかっただけで、実際はどこかに行きたいという希望はないとのことだった。
「じゃあ、一緒に歩いて秩父を回りませんか。ばんばら商店街以外にも、いいところはたくさんありますよ」
勇輔が誘うと、愛佳は恥ずかしそうに微笑んだ。
十二時が近かったので、勇輔はまず愛佳を打田屋に誘った。西武秩父駅の近くにある、秩父名物・わらじかつ丼の元祖の店だ。甘じょうゆ味のシンプルなわらじかつ丼は愛佳の好みに合ったらしく、彼女は嬉しそうに口に運んでいた。
その後は足を延ばして羊山公園へ。
公園の桜並木はやや盛りを過ぎていたが、舞い散る桜吹雪に愛佳は声を上げて感動し、勇輔はというと桜吹雪の中に紫絣の女性がいるという幻想的な光景に感動していた。
芸術的な素養など一切ない勇輔だが、一見地味な印象の愛佳が実はかなりの美女であるという事実に胸をますますときめかせていた。
「へぇ、稲葉さん、回避性インソムニア知ってるの?」
羊山のふもとの喫茶店で休憩中、勇輔は自分の好きなインディーズバンドを愛佳も知っていると知ってうれしくなった。回避性インソムニアは関東近郊で活動するビジュアル系バンドで、ダークで難解な歌詞とアップテンポな曲調で特徴づけられる。
「私以外に知ってる人はじめて見ました」
コーヒーカップの取っ手に手をかけて、愛佳は感心したように勇輔を見つめた。
数時間を共にしたおかげで警戒心が解けたのか、もう以前のように遠慮がちに視線を逸らしたりはしない。
ログハウス風の喫茶店『CHIECO』はカウンターの壁面いっぱいにとりどりのコーヒーカップが並び、手作りケーキも常時数種類用意されているこだわりの店だ。
コーヒーの香りを楽しみながら、勇輔は彼女をここに連れてこられたことを満足に思った。秩父の喫茶店の中では、勇輔はここの珈琲がいちばん気に入っていたからだ。
「俺もだよ。あのバンドのライブには行ったことある? パフォーマンスで結構派手な手品をやるんだ。俺も影響されて勉強を始めたりしたよ」
「前橋のライブハウスで公演したのなら見たことがあります。ハコいっぱいに観客がいるのに、それに構わずパフォーマンスしますよね。それがまたカッコいいっていうか……」
愛佳はいきいきとバンドについて語りだす。
(とうとう、俺は運命の女性に出会ってしまったのかもしれない……)
勇輔はそんな予感に痺れた。これまで付き合った数多の女性全員にその予感を抱いた過去を、彼はいつものごとく忘れていた。
「そういえば、その腕時計ってアンティークなんだよね。俺も詳しくないんだけれど、今後の参考に見せてくれないかな」
会計を済ませて店を出た後、勇輔は愛佳に何気なく頼んだ。

『CHIECO』から西武秩父駅近くまで道を歩いて下る間も、ふたりの会話は弾んだ。
愛佳は秩父へは穂波の誘いで訪れたこと、秩父銘仙の着物は今回初めて身に付けたが、柄に魅了されたので集め始めてみようかと思っていることなどを話した。
また、十二月に行われる秩父夜祭が日本三大曳山祭りのひとつと呼ばれ有名なことに触れ、今年の冬にまた秩父を訪れて祭りを見物したいという希望も口にした。
「じゃあ、十二月にもまた俺が案内するよ。その……今度は、最初からふたりで」
ためらいながら勇輔がそう誘うと、愛佳は照れたように遠くを見て、何も答えなかった。
太陽は相変わらず強い日差しを投げかけていたが、岳史や穂波と別れてだいぶ時間が経過していた。
「まだ余裕があったら、ちちぶ夜祭会館にも行こうか。夜祭の展示や解説があって、時期外れでもなかなか楽しいよ」
勇輔の提案に、愛佳は腕時計を確認して頷いた。
それからやや声を落として、
「あの、お手洗いに行きたいので、コンビニに寄っていいですか」
「いいよ。やぁ、ちょうど目の前にある」
勇輔は駐車場に歩いて入るとコンビニの入り口で立ち止まり、愛佳にピースサインを示した。二本指を唇に当てて、
「俺はちょっとコレ吸って待ってるね」
愛佳は頷いて、コンビニに入っていった。
勇輔は入口から少し離れたコンビニの建物の角でタバコを吸った。
しかし、いくら待っても背後から愛佳の声はかけられず、そのまま、彼女は勇輔の元に帰ってこなかった。

「……というわけなんだ」
勇輔は飲み終わったビールジョッキをドン、と居酒屋のテーブルに置いて息を吐いた。
草鞋勝也(わらじ・かつや)は、そんな友人の憔悴しきった様子に面くらいながら、しかしそれがどうして中学時代の友人に酒をおごるから話を聞いてくれという呼び出しをしてきた理由になるのか、疑問に思った。
伊佐間勇輔は甲山岳史と並んで、草鞋の数少ない友人のひとりである。子どもの頃から探偵に憧れて無鉄砲な推理を繰り返していた草鞋を、笑いも馬鹿にもしないで、「すごいな、応援するぞ!」と励まし続けてくれた幼なじみである。惚れっぽく考えなしに行動することがあるという欠点はあるが、友情に厚く仕事熱心な好男子だ。岳史と並べば平均に見える顔立ちも、猿に似ていると言われる草鞋と並べばそこそこの美男子である。
「どう思う、かっちゃん。彼女、タバコが嫌いだったのかなぁ。それで俺がタバコを呑んでいるのに幻滅して、帰っちゃったのかなぁ」
ぶちぶちと食べ終わった枝豆の皮を両手でちぎりながら勇輔は情けないことを言う。草鞋と目を合わせる様子はなく、その点では話を聞いてもらいたいだけのようにも思えるが、台詞を聞けば原因究明を依頼しているようにも聞こえる。
草鞋はおごりと言って渡されたビールをぐいと飲んでから、
「ふむ」
と頷いた。
「タバコ嫌いが原因という説は、ないとはいえないが、まぁ、違うんじゃないかね」
「何で?」
勇輔はうつむいていた顔をがばっと上げる。
「君は自分で気づいていないかもしれないが、タバコを吸う人間は吸わない人間にとってすぐにそれとわかるものだ。体ににおいが染みついているからな。彼女も、数時間も一緒にいればとっくに気づいていただろう。タバコを吸っているのに幻滅するなら、もっと早い段階で姿を消すのじゃないのかね」
言われて、勇輔は自分のシャツの胸元を引っ張り上げて鼻に近づけ、くんくんとにおいを嗅いだ。しかし、わからなかったらしくすぐにシャツを離した。
「じゃあ、なぜ彼女は俺に声をかけもせず帰ってしまったんだ?」
勇輔はますますわからないと途方に暮れた声を出す。
「その前に」
草鞋は尋ねた。
「伊佐間は、彼女が帰ってしまった理由を知って、どうしたいんだ。彼女と連絡が取れないわけじゃないんだろう。彼女の連れが、甲山の店に行ったんだから。どうせあいつのことだ、ちゃっかり連絡先を受け取っているに決まってる」
ふたりの友人である甲山岳史は秩父の名菓・味噌ポテト饅頭の製造・販売を仕事としている。味噌ポテ堂という和菓子屋がその主な販売経路で、岳史はその店の経営者でもある。岳史は秩父観光に来た若い女性に声をかけては、自分の店に誘い、試作品を食べさせて、その感想を新しい商品開発に生かしているのだ。岳史が女性にモテるわりに交際が長続きしないのは、そうした仕事を何よりも優先している姿勢が女性をげんなりさせるからだろうと草鞋は分析しているが、なぜか勇輔は、その事実を認識できていない。
「それが……武田さんは、店まではついてきてくれたらしいが、岳史がさくらちゃんとちょっと話している間にいなくなってしまったそうなんだ。岳史は俺と違ってタバコも吸ってないのに、どうして帰ってしまったんだろうなぁ」
勇輔は首をかしげているが、草鞋は話を聞いてすぐに事情を了解した。
さくらちゃんとは、岳史の姪で味噌ポテ堂のアルバイト店員である。芸能人顔負けの可愛さと明るいキャラクターで味噌ポテ堂のアイドル的存在だが、岳史とはあまり顔が似ていないので、ふたりが並んでいても親戚と思われることは少ない。むしろ美男美女でカップルと間違われることが多く、武田さんとやらも親しげなふたりを見て誤解してしまったのだろう。
「つまり、連絡を取ろうにも取れない状態、というわけか。それで、せめて帰ってしまった原因だけでも知りたいと?」
草鞋が尋ねると、勇輔は頷く。
「ああ。あんなに俺と楽しそうに話してくれていたのに、どうしてコンビニに入ったきりいなくなってしまったんだろう。俺が目を離したのが悪いのか? 俺は一体彼女に何をしたんだ?」
勇輔ははぁ、とため息をついてテーブルに沈んだ。
草鞋は手を挙げて店員を呼び、自分と勇輔の分のビールのお代わりを頼んだ。
「まぁ……考えつくこともないではないな」
草鞋はつぶやいて、目の前の皿からだし巻きを箸でとって口に運んだ。
「本当か! さすが今は便利屋に鞍替えしたとはいえ、腐っても元・探偵だ! 聞かせてくれ!」
勇輔が顔を上げてぱぁと表情を輝かせる。
やはりこれが目的であったか、と草鞋はおごりの理由に納得したが、自分の説が事実を言い当てているという自信はさすがになかった。
「いいか。これはこういう理由が考えられる、というだけで、本当に彼女がそれが理由で帰ってしまった、とは保証できないからな。彼女は本当は伊佐間がタバコを吸っているのに幻滅して帰ったのかもしれないし、全然別の理由で伊佐間と別れたのかもしれない」
「いいんだ。俺に理由が納得できるのなら。ぜひ、聞かせてくれ」
勇輔の真剣な目に、草鞋は覚悟を決めた。
草鞋は店員が届けてきたビールを受け取って一口飲み、唇をぺろりとなめると、勇輔に問いかけた。
「伊佐間。さっきは彼女との出会いから別れまでを詳細に話してくれたが、私に話していないことはないか?」
勇輔は草鞋の迫力にきょとんとして、
「いや、ないぞ。全部話した」
言って、ごくごくと手にしたビールを飲んだ。一口で飲むビールの量がずいぶんと多い。
「そうか? ……喫茶店を出る時、彼女のアンティーク時計を見せてもらっただろう。その時、手品で培った手癖の悪さが出なかったか?」
ぶふぉ、と勇輔が飲んでいたビールを吐き出した。草鞋はその様子をあきれた目で見た。
せき込む勇輔をにらみながら、
「やはり、その時、彼女の腕時計に細工をしたんだな。アンティークの腕時計というからには、その時計はアナログタイプだったんだろう。一般的なアナログ腕時計はりゅうずを引き出せば時計の針を動かせる。彼女の腕時計を遅らせて、少しでも長く一緒にいられるように図ったな?」
勇輔はごほごほとわざとらしく咳を繰り返し、草鞋から顔を逸らし続けたが、その態度が何よりも雄弁に草鞋の指摘を事実だと認めていた。
「まったく、君の考えなしの行動は相変わらずだな」
草鞋がため息をつくと、勇輔は焦ったように、
「け、けれど、それじゃあアレか、稲葉さんは俺が腕時計の時間を遅らせたのに気づいて、それで怒って帰ってしまったのか?」
「かもしれないな。コンビニの店内の時計を見て、腕時計との時間のずれに気づいたんだろう」
冷たく言い放つと、勇輔は見るからにシュンとうな垂れた。自らの軽率な行動を反省しているのだろう。
草鞋はしばらくその様子を眺めていたが、やがて彼が存分に頭を冷やしたのを見て取ると、ふ、と口元を緩めた。
「まぁ、怒ったという理由も多少はあるだろうが、それ以上に彼女が急いでその場を立ち去らなければいけない理由もあっただろうな」
「へ?」
勇輔はきょとんとして草鞋を見た。
「彼女がコンビニに入ったのは、ひょっとして午後三時過ぎだったんじゃないかね」
勇輔はあの日、愛佳がなかなかコンビニから出てこないと心配になり、自分のスマートフォンで確認した時刻を思い出した。
「そうだ。三時を少し過ぎていた。でも、それが?」
草鞋は口を曲げて鼻から息を吐いた。
「稲葉さんがいなくなったのは西武秩父駅の近くのコンビニだ。そこから急いで歩けば、午後三時半には秩父銘仙センターにたどり着けるだろうな」
勇輔は草鞋が何を言っているのか全くわからなかった。
それが表情に出ていたのだろう、草鞋は自分の着ている灰色のサマーセーターの襟ぐりをつまみ上げた。
「秩父銘仙センターでは観光客向けに秩父銘仙の着付け体験を行っているんだ。君も話くらい聞いたことがあるだろう。申し込めば銘仙を着たまま外出もできる。閉館三十分前までに帰るという条件付きでな」
勇輔は愛佳の色鮮やかな矢絣の銘仙と袴を思い出した。
「あの銘仙は銘仙センターからの借り物だった、と? しかし、武田さんは自分の祖母の銘仙だ、と……」
「じゃあ、武田さんは自分の祖母の銘仙を着ていたんだろう。しかし、だからといってその連れが着ている銘仙が借り物じゃないとは言い切れない。稲葉さんは自分の着ている銘仙が誰のものか、君に言ったのか?」
勇輔は思い出してみた。
「……言ってない」
「ふたりの手荷物の形状も考えてみたまえ。武田さんは銘仙に合わせて巾着だが、稲葉さんはハンドバッグ。普通、自分の銘仙を着て出かけるなら、手荷物は巾着のような和物に入れるだろう。女性はコーディネートを重視するからな。特に旅先のようなハレの場は。なのに違ったということは、彼女は秩父に来るまでは洋服を着ていたと考える方が自然だ」
勇輔は草鞋の言葉に、では愛佳は借り物の銘仙を時間内に返却するためにコンビニから消えてしまったのかと納得した。
「しかし、なら、事前に言ってくれればよかったのに」
思わずこぼした勇輔に、草鞋は心底あきれた様子を見せた。
「君は、好意的な感情を持つ異性に『この銘仙は実は借り物で、返却時間が迫っているからそろそろ別れなくてはいけない』と言って雰囲気を台無しにしたくないという、繊細な女性の胸の内がわからないのかね?」
漬物のキュウリを口に運んで、
「だから三十四にもなるのに結婚できないんだ」
これにはさすがの勇輔もカチンときた。
「うるさいな、三十四にもなって独身なのはお前も同じだろう」
「私はいいんだ。名探偵とは孤独なものだと相場が決まっている」
「依頼がなくて便利屋に鞍替えしたくせに!」
「それを言うな!」
しばしくだらない口論が続いた後、勇輔はぽつりと本音をこぼした。
「もう、稲葉さんには会えないのかな……?」
草鞋は勇輔の顔をまじまじと見、その顔に『本気』と書いてあるのを確認して、尋ねた。
「……君は自分の職業を忘れたのかね?」
「え、古着屋?」
「なら、秩父銘仙を中古で扱い始めるなりなんなりしてみたらどうかね。彼女は秩父夜祭に来たいと言っていたんだろう。秩父銘仙を集めてみたいとも。ならば、夜祭に来た折、銘仙を扱っている古着屋を見つけて覗くこともあるかもしれない」
「でも……俺の店で扱っている古着と銘仙じゃジャンルが違うしなぁ」
勇輔がためらうと、
「ならば、もう会えないと諦めるんだな」
草鞋は断定して店員に締めの焼きそばを注文した。
勇輔は思わずかっとなった。
「うるさい! できるか! 畜生、やってやるぞ! 俺にも焼きそばください!」
こうして秩父に銘仙も取り扱うロックな古着屋が誕生した。
その後、勇輔が愛佳と再会できたのかどうか、草鞋は知らない。

(おわり)