便利屋AIAIの事件簿(7)〜秩父SL純愛列車〜

便利屋AIAIの事件簿(7)〜秩父SL純愛列車〜

1 「もうこれが最後のチャンスなんだから。これで迎えに来なきゃ、絶対に別れる」

琴葉(ことは)は泣きながら置手紙を書いて、荷物をまとめてアパートを出た。

恋人の将司(まさし)とは大学卒業以来同棲して三年になるが、これで何度目の無断キャンセルだろう。

デートの遅刻は当たり前、琴葉の誕生日も二回忘れたし、付き合って一年目の記念日に初めてデートした場所へ行こうと誘ったら、その場所を覚えていなかった。

連絡もせずに外泊するのもしょっちゅうだし、大学時代はスマートフォンの通話料を払い忘れていたという理由で音信不通になったこともある。

何度泣きながら訴えても、将司のいい加減さはちっとも改善されなかった。

カンカンとヒールの音を高く響かせてアパートの階段を降り、最寄りの駅に向かう。

琴葉は横断歩道で立ち止まって、腕時計を見た。

「お昼には三峰に着くわね。この時間なら、窓口で切符が買えるかしら」

 

2  西武秩父駅で電車を降り、将司は御花畑駅へと走った。

昨日から着替えていないせいでTシャツは汗臭いし、ジーンズも足にまとわりついて煩わしいが、そんなことを気にしている場合ではない。

踏切を横断し、自転車置き場を走り抜け、こじんまりした駅舎へと入る。

息を切らせながら改札を抜けようとして、自動改札ではないことに気づいた。

手に持ったままのSuicaを振りかざし、窓口の駅員へ息せき切って尋ねる。

「Suicaはどこへ当てればいいですか?」

眼鏡をかけた初老の駅員は、将司を見て、丁寧な物腰で答えた。

「申し訳ありません。秩父線ではSuicaは使えないんですよ。こちらの券売機で切符の購入をお願いします」

と、窓口の左手の券売機を手で指し示す。

将司は券売機で切符を買おうとして、財布の中身が小銭しかないことに気づいた。

「すいません、クレジットカードは使えますか?」

再び窓口で尋ねると、駅員は同情のこもった視線で将司を眺め、答えた。

「申し訳ありません。秩父線ではクレジットカードは使えません」

「えぇ?」

その瞬間、将司はものすごい勢いで頭を回転させた。

タクシーで三峰まで行くか? さすがにタクシーならカードは使えるだろう。だが……タクシー代を考えると空恐ろしいものがある。

バスで行くか? しかし、電車でさえダメなのにバスでクレジットカードが使えるとは思えない。

では、歩いて? まさか!

将司はある窮余の一策を思い付き、大通りに向けて走った。

彼の背を、初老の駅員は思い深げに眺め、つぶやいた。

「……嫁に逃げられでもしたのかねぇ」

 

西武秩父駅前の国道に出ると、将司は親指を立てて道路に向け必死にアピールを始めた。ヒッチハイクだ。もう、これしか方法がない。

しかし、行き先を示してもいない若い男のヒッチハイクがそうそう自動車を止められるはずもなく、何台もの自動車が空しく彼の前を走り去っていった。

「三峰までぇ! お願いしま〜す!」

将司は声を張り上げて、親指を懸命に立て、左右に振った。

「お礼はいくらでもします! お願いします!」

しかし、びゅんびゅん走り去る目の前の自動車たちは彼に気づいた様子もない。

このまま三峰にたどり着けないのでは琴葉とはもう終わりだ……。

将司の心に絶望が歩み寄った時、背後からクラクションの音がした。

振り向くと、道路脇に停まった薄いブルーのセダンの助手席から、ロングヘアの若い女性が将司に向かって手招きしている。

色白で額が広く、切れ長の目のなかなかの美女だ。

将司はふらふらと彼女に近づいた。

近くで見ると、きっちりとブラウスを着込んでいるにもかかわらず、胸部にかなりのボリュームがあることがわかる。ありていに言って巨乳だ。

将司はそんな事をしている場合ではないにもかかわらず、少し目尻を下げた。

「ヒッチハイクですか?」

と美女が言った。声もまた美しく可憐である。

「は、はい……」

将司が思わず頷くと、美女は、

「三峰までって聞こえましたけれど、乗っていきます?」

と将司にとって願ってもいないことを申し出た。

「よ、よろしくお願いします!」

その場で角度九十度のお辞儀をすると、美女は笑って「後部座席にどうぞ」と将司を導いた。

将司はボディバッグを前に抱えなおし、そそくさと後部座席のドアを開ける。

自動車は後方にぼこぼことへこみが散見され、あまり運転が上手な持ち主ではないことが見て取れるが、将司は見なかったことにした。三峰まで乗せてくれる他の車があるとは思えないし、それが美女と同乗ならなおさらだ。

後部座席は運転席側に段ボールが一箱乗せられており、どこかへ届け物に行く途中であるのだろうかと将司は推量した。

「それで、三峰のどこに行くのかね。駅か?」

低い声がして、運転席から大柄な人影が振り返った。

耳がでかくてギョロ目で顔が恐い。

「ぎゃっ!」

将司は座ったまま飛び上がって驚き、天井にしたたかに頭をぶつけた。

「大丈夫ですか?」

美女が心配して声をかけてくれるが、運転席の男は気分を害した様子で、

「人の顔を見て驚くとは、無礼な」

とむすっとして前を向いた。

美女が、

「所長、ご自分の顔が恐いことを忘れちゃだめですよ」

とたしなめたところを見ると、ふたりの関係は上司と部下らしい。たちの悪い美人局かと思ったが、そうではないようだ。

「奈津子くんの声掛けにはほいほい乗ったくせに。運転するのは私だぞ」

所長と呼ばれた男は機嫌を直した様子はない。

男は灰色のTシャツにカーキのオープンシャツをはおり、鍛えられた腕は日に焼けていて、一見、肉体労働者とも思える。だが言葉遣いは漫画のキャラクターのように浮世離れしていた。

男は将司に腹を立てていたが、彼を車から追い出すつもりはないようで、

「私たちは三峰口の駅前の饅頭屋に行くのだが、君は三峰のどこまで行きたいのかね? 距離によってはそこまで送ってやるが」

と親切なことを申し出た。見た目ほど悪い人間ではないようだ。

「俺……僕も三峰口までです。そこで恋人が待っているんです。お願いします、絶対、別れたくない!」

所長と呼ばれた男と美女は将司の告白に驚いたように顔を見合わせたが、将司の心はその時既に琴葉の下へ飛んでいた。

彼女はきっと、お気に入りの白いワンピースに、オレンジの小さなカーディガンを着て、駅で待っているはずだ。

あの夏。付き合って初めてのデートで、三峰神社と秩父線のSLを目当てに、ふたりは秩父にやってきた。琴葉は買ったばかりだという白いワンピースにオレンジのカーディガンを着ていて、似合うだろうか、と将司に尋ねてきた。もちろん! と将司は答え、ふたりは笑いあった。

数時間前、朝帰りで空っぽのアパートに帰った将司は、「思い出の場所にいます」という琴葉の置手紙を見て、真っ先に、あの最初のデートを思い出した。琴葉は秩父にいるのだと直感した。

それから、大慌てで財布とSuicaだけボディバッグに入れてアパートを飛び出した。

おかげで現金を忘れて、秩父線には乗れなかったが、幸運にもヒッチハイクで三峰口へ行くことができそうだ。

運は自分に向いている、と将司は感じた。

琴葉にもきっと会えるし、きっと許してもらえる。

将司は希望に満ちていた。

 

3  窓口で乗車券とSL整理券を買うと、駅員が記念乗車券をつけてくれた。

SLのイラストが印刷された厚紙で、裏にはスタンプ用の台紙も印刷されている。

琴葉は礼を言って切符類を受け取ると、緑の柱の駅舎の外に出た。

駅舎の軒先にはツバメが巣を作っていて、今まさに子育ての真っ最中だった。

(……あの時も、ツバメを見たなぁ)

琴葉は初めて三峰口駅を訪れた時のことを思いだした。

西武秩父線から秩父鉄道に乗り換えて三峰口駅までやってきて、バスで三峰神社を訪ねた。お参りして、昼食を摂り、バスで下って、三峰口駅からSLに乗って熊谷駅まで行った。

あの時は、ふたりとも始終笑っていた。

今日、全く同じルートをたどっているけれど、琴葉はずっと笑えていない。

将司が来ないからだ。

(このSLの発車時刻までに、将司が来なかったら、もう……)

琴葉は腕時計を見た。

時刻は午後1時42分。

発車時刻は、午後2時03分。

SL用の改札には既に何人もの人が並んでいる。

眼鏡をかけカメラを持った、明らかに鉄道オタクと分かる人々や、幼い子供を連れた親子連れ、老夫婦、中年女性のグループ。

琴葉は列から離れ、駅舎の中を歩いた。

改札前の広場は横に長くスペースがとられ、穴から顔を出して記念撮影するSLの看板や、テーブルと椅子の休憩スペース、うどんやそばを提供する屋台が並んでいる。

琴葉はぶらぶらあたりを歩いて、自動販売機でお茶を買うと、駅舎の屋根の下から一歩出て、空を見上げた。

梅雨入り間近の空にもかかわらず、雲ひとつない青空だ。

背後で、改札が始まった音がした。

(……来ない)

琴葉の心臓が不安で高鳴った。

(将司が、来ない)

吸い込むような青空は、しかし琴葉の不安を吸い込んではくれなかった。

 

4  「……それで、思い出のデートと言ったら、僕らにとっては三峰神社と、秩父のSLなんです。だから、彼女は三峰口駅で僕を待っているはずです。三峰神社に行くバスと、SLの始発ですから」

将司の説明を、運転席と助手席のふたりはうんうんと頷きながら聞いてくれた。

このふたり——便利屋AIAI所長の草鞋勝也(わらじ・かつや)と事務の釈氏奈津子(しゃくし・なつこ)——は、三峰口駅前の饅頭屋の草餅を買いに行くところだったらしい。なんでも、便利屋の上客の大好物だとかで。

「それはロマンティックですねぇ」

うっとりと、奈津子が声を出す。

「思い出の場所で仲直りなんて、少女漫画みたい!」

「いやぁ……」

将司は照れた。目の前の美女が自分とその恋人に憧れるなんて、うれしいような誇らしいような、こそばゆい気持ちだ。

セダンは山道をぐんぐんと登っている。片側一車線の道路の両端には人家や商店がまだまだ立ち並んでいるが、その背後には鬱蒼とした木々と山肌が目前まで迫っているという、山間部の秩父ではそう珍しくない風景が続いている。

「確かに、絵にかいたような話だが」

運転席の草鞋が山道のカーブの道筋に苦労しながら、ぼそりとつぶやいた。

「そううまく行くかな?」

「え?」

草鞋の眼差しに、将司はきょとんとする。

奈津子は、

「そうですねぇ」

と人差し指を顎に当てた。

「駅でいつまでも待っているとは限りませんものね」

「えぇ?」

将司は混乱した。

琴葉が駅で待っていないなんて、ちっとも考えになかった。

だって、他のどこに、琴葉がいるというんだろう?

「私だったら、最初のデートコースをそのままなぞりますね。同じ場所にいつまでもいるなんて、気がめいって、どうにかなっちゃうから」

奈津子が女性側の意見を言う。

将司ははっとした。

確かに、いつまでも同じ思い出の場所で待っていてくれる理由はない。

向かう方は移動しているが、待つ方はずっと同じ場所にいるのだ。気がめいるという奈津子の言い分もわかる。琴葉がそう思わないという保証はない。

「そんな。じゃあ、琴葉はどこにいるっていうんですか」

「そうですね。最初のデートコースをなぞっているとすると、この時間だと……」

奈津子は左手の腕時計を見た。細い革のベルトが彼女の華奢な腕に良く似合っている。

「午後2時10分だから、もう午後2時03分三峰口発のSLに乗ってしまっていますね」

「そんなぁ……」

将司はがっくりと前方にうなだれた。後部座席のシートベルトが彼の体に引っ張られてビン! と音を立てる。

草鞋はそんな将司の様子を見て同情を覚えたらしく、ハンドルを回して自動車を脇道に寄せた。

「ちょうど浦山口駅だ。帰りのSLがこの時間にホームを通り抜けるはずだから、乗っているかどうか、確かめたらどうだね」

 

浦山口駅は三峰口駅よりもさらに小さな駅だった。

白い壁に薄緑の柱がかわいらしく、改札はひとつで、立っている駅員は一人しかいない。

まだ若い駅員は、入場券を買ってホームに入るでもなく改札のあたりをうろうろしている将司に不審気な視線を向けたが、将司がスマートフォンを取り出して駅の中を撮影するそぶりを見せると、暇な観光客と納得したのか、何も言わなかった。

改札からうかがうに、ホームの中は鉄道オタクのカメラマンが何人もSLを待ち構えているようだった。草鞋によると駅近くに絶好の撮影ポイントがあるらしく、マニアの間では有名な駅らしい。

ホームは小さく、改札の外側からでも十分に通る列車の中を見ることができそうだ。列車の中に知り合いがいたら、それが誰かは確認できるだろう。

しかし、浦山口駅をSLは通過するだけだ。ここから乗車できるわけではない。

それでも、琴葉が乗っている可能性があるなら、確かめるしかないじゃないか。

汽笛が聞こえて、将司は身構えた。

SL独特の車輪音が聞こえ、真っ黒な胴体が彼の前を通過していく。

前方が駅のホームの端に差し掛かって、待ち構えていた鉄道オタクたちが一斉にカメラのシャッターを切る音がした。

将司は目を凝らして、通り過ぎるSLの車内を見つめ続けた。

車窓から手を振る男の子、母親、お洒落した中年女性……。

三両目の後方の車窓に、オレンジのカーディガンを着たボブカットの若い女性がいた。

琴葉だ!

将司は大声で彼女に呼びかけようとしたが、SLはその暇もなく彼女を将司の前から連れ去ってしまった。

将司はなすすべなく、改札に立ち尽くしてSLを見送った。

六月の爽やかな風が彼の肌をなぜた。

終わった……、と彼は思った。

草鞋の車のヒッチハイクに成功したとき、琴葉とはきっと会える、仲直りできると確信したのに、その確信は葉の上の滴のように流れて消えてしまったのだ。

将司はがっくりと肩を落とした。

世界が、彼を見捨てたように感じられた。

その肩を、ぽん、とたたく人物がいた。

「草鞋さん……」

将司が顔を上げると、予想以上に高い位置に草鞋の顔があった。座っていたのでわからなかったが、かなりの長身だったのだ。

草鞋は言った。

「その様子だと、彼女はSLに乗っていたようだな」

「はい……」

将司が消え入りそうな声で答えると、草鞋は軽い調子で尋ねた。

「……で、どうするのかね」

「え?」

「このまま彼女に追いつく努力もせずむざむざ帰ってひとり枕を濡らすのか、それともわき目も降らず走ってでも彼女に追いついて、別れたくないと懇願するのか、どっちだ、と訊いているんだ」

「どっちって……」

将司はかっとなった。

「そりゃあ俺だって走ってでも追いついて琴葉に会いたいよ! でも、どんなに早く走れても、SLには……」

思わず叫んだ将司に対し、草鞋はにやりと笑って彼の鼻の頭に千円札と名刺を突き出した。

「へ?」

「やるのではない、貸すのだ。返済時には報酬も頼む」

「は?」

「阿呆な反応はやめて、今すぐこの千円札を受け取って切符を買い、次の上り、午後2時時35分の羽生行に乗りたまえ」

「どうして……」

将司の疑問は、草鞋の気合に吹き飛ばされた。

「早く!」

「はいッ!」

将司は慌てて千円札を受け取ると、切符を買って改札を抜け、ホームへと消えた。

その背中を仁王立ちで草鞋が睨んでいると、奈津子が自動販売機で買った緑茶のペットボトルを両手に彼に駆け足で近寄った。

「珍しいですね、ケチな所長が千円も見ず知らずの人に渡しちゃうなんて」

草鞋は誇らしげに鼻の下を伸ばした。

「あまりにも情けない男だったからな。ああいう男の彼女はしっかり者が多い。きっと名刺を見てきちんと返済してくれるだろうし、義理堅いから謝礼も期待できる」

奈津子は笑って、草鞋に緑茶を手渡した。

「あらすごい。たとえ会えても、彼女があの人を見捨ててしまう可能性もあるのに。仲直りするって、もうお分かりになるんですね」

草鞋はふふん、とドヤ顔で緑茶を受け取り、キャップを開けて一口飲んでから頭を抱えた。

「……その可能性を考えていなかった……」

 

5  午後三時半を過ぎると、また秩父出身の落語家による駅周辺の観光案内が始まった。始発の三峰口駅をはじめ、御花畑駅、和銅黒谷駅、長瀞駅の前でも、賑やかな音楽とともに観光アナウンスが始まり、周辺の観光名所やイベントを案内していたのだ。

三峰口を出発したときは周囲は山に囲まれ、線路脇の人家には畑が広がっていたものだが、秩父駅に近づくにつれ人家はどんどん密集し、秩父駅につくと周囲は市街地に囲まれていた。そこからまた少しずつ人家が少なくなり、長瀞では自然に満ち溢れた景色が広がって、それが過ぎると畑の単調な景色が続いた。

アナウンスによると次は寄居駅で、毎年八月に寄居玉淀水天宮祭りが行われるらしい。

(祭りか。将司が行きたがるだろうな)

反射的にそう思って、琴葉は気分が沈んだ。

三峰駅を出発してすぐ、車内販売のカートが横を通った時も、鉄道グッズで山盛りのカートを見て、将司がいたら欲しがるだろうな、と考えてしまい切ない思いになったのだ。

長瀞の橋梁を通過した時も、橋の上を走るSLから荒川を見下ろしながら、ライン下りをいつかやってみたいと将司と話したっけ、など、そんなことばかり思い出した。

この旅は失敗だったかもしれない。

琴葉はそう思い始めていた。

だって、景色のひとつひとつに将司を思い出す。

秩父の名山として有名な武甲山の横を通過した時の彼の感動の声、車内販売のカートで買ってくれたアイスクリームの味、沿線の人々がSLに向かって手を降ってくれるのに、感動して手を振り返していた彼の笑顔。

将司は、いい加減なだけの彼氏ではなかったのに。

(でも、もう遅いわ。だって、将司はSLに乗ってきてくれなかった……)

涙がにじみ、視界がぼやけた。

琴葉はハンドバッグからハンカチを取り出し、涙をぬぐった。

ワイン色の座席シートは手触りが良く、車窓から入ってくる風は爽やかで心地よかったが、心が悲しみに満ちていて、とても楽しめる心境ではなかった。

SLが寄居駅のホームに滑り込んだ。

向かいのボックス席に座っていた家族連れが席を立ち、降り支度を始める。

なんとなくその様子を眺めていて、琴葉は驚きに目を見開いた。

家族連れの向こう、車窓の外の寄居駅のホームに、見覚えのある男性が立っていた。

昨日の夜見送った時のままのTシャツにジーンズ姿。前に抱えたままのボディバッグ。顔は涙に濡れていて、興奮のためか真っ赤だ。

「将司……!」

気づくと、琴葉はSLを降りていた。

背後で扉が閉まる音がし、SLが汽笛を鳴らして走り出す。

「琴葉……」

将司は、興奮のためか、はぁはぁと息を切らせて、言った。

「本当にごめん。反省した。俺は……」

将司の言葉は、だが、最後まで口にされることはなかった。

彼の腕の中に、最愛の恋人が飛び込んできたからだ。

 

6  「三峰口駅を午後2時03分に出発するSLは午後2時20分くらいに浦山口駅を通過するんだけど、駅を通過するSLをホームで撮影してから2時35分の上り電車に乗ると、午後3時37分に寄居駅に着くSLに先回りすることができるの。SLはゆっくり走るし、途中の長瀞駅での停車時間も7分あるしね。秩父鉄道を撮影に来る鉄道オタクさんたちの間では有名な話よ」

三日後、便利屋AIAI事務所。

次の仕事の詳細を聞くために事務所に立ち寄った大学生アルバイトの札所巡(ふだしょ・めぐる)は、所長の草鞋と奈津子がかかわったあるカップルの顛末のからくりについてこう聞かされた。

「……で、所長はずっとああなんですか?」

巡はデスクの上に置いた携帯電話を腕組みしてじっと見つめる草鞋と目を合わせないようにしながら、奈津子にそっと尋ねた。

「そうなの。あのカップルから返済と謝礼をするための電話が必ず来るはずだ! って」

奈津子は困ったように頬に手を当ててため息をついた。

「やっぱり、イマドキの子はお礼の電話なんて考えないのかしら?」

「それじゃ奈津子さんはイマドキの女性じゃないみたいな言い方ですよ」

巡が笑って指摘すると、奈津子は暗黒の空気を背負ってにっこりとほほ笑んだ。

(あれ? 笑ってるのに怖い……)

それを見て、巡はなぜか背筋に悪寒が走って内心首を傾げた。

三人は知らない。

草鞋が将司に渡した名刺は、将司が券売機に向かった時に手から零れ落ちて、そのまままだ浦山口駅の券売機の前に落ちているということを。

 

(おわり)