便利屋AIAIの事件簿(9)〜秩父長瀞・不思議な舟客

便利屋AIAIの事件簿(9)〜秩父長瀞・不思議な舟客〜

1 山盛りの真っ白なかき氷が乗ったガラスの器が計七つ、テーブルの上に並べられた。器の周りにはそれぞれ抹茶やイチゴなどシロップの入った小皿がついており、左上には大粒のあんこが乗った少し大きめの器がある。そして、手前に、紙に包まれた木製の細長いスプーン。

「お好きな順番でシロップをかけて召しあがりください。麦茶はセルフでお代わり自由ですので。どうぞごゆっくり」

エプロン姿のウェイトレスがにっこり笑って和風喫茶といった趣の店内を去っていく。

しかし俺たちは彼女の後姿を見送ることもなく、眼の前の巨大かき氷に目を奪われていた。

「うわ、でか……」

と高迫光太(たかさこ・こうた)がつぶやく。大学生になって二年も経つのに、目がカブトムシを前にした小学生男子のようにキラキラしている。しかし彼の場合、低めの身長に子供じみた黄色のTシャツ、半ズボンという外見からして小学生男子じみているので、特に違和感はない。

「どうしよ、まず氷だけで一枚撮る? それともシロップかけた方がいいかな」

さっそくスマートフォンを取り出しているのはやっさんだ。本名・斉藤弥喜子(さいとう・やきこ)。グループのリーダー的存在のひとりで、今回の小旅行の発案者だ。自身のインスタグラムに写真を載せるのが目下の趣味らしく、日々スマートフォン片手にインスタ映えを研究している。ただし、載せるのは食べ物や風景、小物などの写真だけで、人物はほぼ写さない。ギャル系のファッションをモデル体型ですらりと着こなしているのに、もったいないことだと俺は思っている。

「えーと、抹茶かけて、きなこかけて、黒蜜……いや、あんこかな」

周囲に先んじてかき氷にシロップその他をかけ始めたのは佐藤茉莉(さとう・まり)。少々ぽっちゃりで生真面目なタイプ。なぜかどんなに親しい友人にも「○○ちゃん」と名前で呼ばれてあだ名がついたことがない。色白の肌に似合うアイボリーのワンピースを着ていて、おいしそうにかき氷をほおばる。

「まりちゃん、いいなー。私もあんこ頼めばよかったかなー。でも、秘伝の蜜もおいしそう〜」

語尾を躍らせて嬉しそうにスマートフォンでかき氷に蜜をかける様子を動画撮影しているのは三園真由美(みその・まゆみ)。通称・まゆまゆ。しかし最近親しくなったばかりの俺はなかなか「まゆまゆ」と呼べず、結局「三園さん」と呼んでしまっている。黒白のボーダーTシャツにポニーテールのうなじがまぶしいスポーツウーマンで、今日も女子でひとりだけジーンズだ。

「アサヤマ冷蔵のかき氷……まさか今食べることになるとは……」

かき氷を前になぜか居心地の悪そうな顔をしているのは札所巡(ふだしょ・めぐる)だ。アッと驚く珍名だが本人はいたって普通の大学生である。彼は俺たちと違って地元の秩父出身だからてっきりかき氷も体験済みと思っていたが、意外やこれが初という。低めの身長にぽっちゃり体型で非モテかと思いきや、愛嬌ある顔立ちとにぎやかな言動で大学の女子連中の間では好感度が高い。だが、今日はいつになく暗い表情で、いつもなら冗談の一つや二つ飛ばしているところを今日はひとつも発していなかった。服装もいつもの派手な原色のTシャツではなく、黒一色のTシャツにジーンズという地味っぷりである。何があったんだ、いったい。

そして、巨大かき氷を前に何らコメントすることなく黙々とシロップをかけて食べ始めているのが小柴樹(こしば・たつき)である。光太の友人ということでこのグループにいるが、正直なところ、俺は彼とあまり話したことがない。眉が太く彫りの深い顔立ちで、イケメンといえばイケメンと言えそうだが、表情の種類の少なさが大いにマイナスに評価されるだろう。身長と体格は平均的で、服装も深い青を基調としたTシャツに黒いジーンズととりたてて目に付くところはない。正直、大学構内にいれば何人も似たような人物を見つけられそうだ。しかし彼に関して評価すべきところがひとつある。ノートテイクが非常に分かりやすく、試験前には大いに頼りになる。

「オトさん、早く食べないと溶けるよ!」

光太が声をかけてくれて、俺は自分のかき氷が溶けかけていることに気が付いた。あわてて秘伝の蜜とやらをかけて木のスプーンで口に入れる。ふうわりとした氷が自然な甘さの中で口の中に溶けて、うっとりとなる。

やっさんや三園さんもスマートフォンでの撮影は終わったらしくかき氷を食べ始めていた。皆、予想以上の美味さのかき氷に言葉少なに食べ進めている。

仕方ない、これにありつくまで八月の炎天下を三十分以上行列に並んだのだ。

秩父・長瀞のアサヤマ冷蔵のかき氷は評判以上の美味しさだった。

 

2 俺たちは大学一年次の必修クラスが同じで知り合った七人グループで、全員、食べ歩きが好きという共通点がある。各自がSNSで相互に連絡を取り合っており、行き先の趣向が合えば二人でも三人でも食べ歩きに赴く。

今回の長瀞行きはたまたま全員の予定が合い、グループ全員での日帰り小旅行となった。全員がそろうのははグループが結成されたばかりのころ、大学近くの甘味屋でおしるこ祭りが開催されて以来初のことである。

食べ歩き以外に興味のないグループだから、目的のかき氷が達成された後は自由行動になる。腹に余裕のある人間はおみやげを物色しがてら商店街でさらにぶらついてめぼしいものを探すし、かき氷で満足した人間は長瀞で有名な宝登山神社を参拝したりする。

光太と俺は商店街をぶらつくグループだった。

女子グループは神社を参拝するそうで、札所と小柴は無言で手を振ってグループから別れた。

「あいつら、どこ行くんだ?」

俺が首をかしげてふたりを見送ると、

「あっちはロープウェイがあるらしいから、乗るんじゃね?」

と早くも商店街のあちこちの土産に目を走らせながら光太が答えた。

「ロープウェイ? 山の頂上に何があるんだよ」

「ローバイ園があるって聞いたけど」

明らかにローバイが何かわかっていない発音で光太が答える。

「蝋梅? それは冬の花だろう。今は夏だぞ」

「知るかよ。今も何か咲いてんじゃねえの」

光太はいい加減に答えると味噌煮込みおでんの看板を見つけ、さっさとそこへ歩いていく。かき氷で腹が冷えているのだろう、二本も買い込んでいた。

「んまーい」

美味そうに熱々の三角形のおでんにかぶりつく光太を見ていると、俺も腹が冷えているのがつらくなってくる。つられて、一本購入してしまった。

商店街はなかなかの賑わいだった。道路には緑色の石畳が敷かれ、車は入れないが行きかう人がぶつからない程度の余裕はある広さ。両端はお土産屋や飲食店が延々と並んでいて、軒先で軽食を売っている店も多い。

「アイスクリーム、味噌ポテト、冷やしキュウリ〜♪」

食べ歩きできる軽食を見つけると片っ端から歌い上げる光太は、幸福感に満ちた顔をしている。

真上から降り注ぐ太陽の日差しにめげそうになりながらも、商店のひさしが石畳に作る陰を飛び移りながら漬物や豆、せんべいや地方銘菓など軒先に並ぶ街を見て歩く。

俺たちと同じように店頭を覗く観光客が途切れなく歩いていて、さすが夏休みの有名観光地と思わせた。

「みそ豚のガレットだって! オトさん、どう?」

光太が洒落た外壁の店を指して誘う。

「いいね」

俺はカウンター形式になっている店の前に立ってひとつ注文した。

そのとき、商店街の向こうから大きな風が吹いて、ふわっと水の気配が俺を包んだ。

「この先、川か?」

俺の問いに答えたのは店員だった。

「荒川です。天然記念物の岩畳は見ごたえがありますよ」

店員は、香ばしいにおいのみそ豚を鉄板で調理しながら、誇らしげに笑った。

 

「すっげー、壮観!」

目をキラキラさせてバカでかい声を出したのは手前にいる光太だ。

みそ豚のガレットを賞味した後、商店街を抜け、端っこに位置する左右最後の店舗の両側のひさしからミストが出ていることに驚きながら二メートルほどの横幅の階段に出ると、眼前に河原が広がっていた。

しかし、一見して、青い川を向こうにして、川砂に石がごろごろ転がっている左側はともかく、右側に広がっているのは異様な光景だった。地中に向かって斜めに線が走っている巨大な一枚岩が、視界の続く限り広がっているのだ。

黒い岩肌の斜め線は地層が斜めになっていることを示していた。岩は均衡のとれた形であるはずもなく、あるところは高く、あるところは低く、天然自然に削れて複雑な形を作っている。全体的に見て平べったいが、表面はごつごつしていてとても歩きにくそうだ。岩肌にも水が流れているのかところどころに植物が生えていて、生き生きとした緑色が奇妙に黒の中に映えていた。

人々はその、安全とは到底思えない岩に思い思いに登ったり座ったり、岩の上に立って真下の川面を眺めていたりするのだった。

「これが長瀞の岩畳……」

俺はつぶやいて、一歩一歩階段を下りて行った。

正直、かき氷以外には特に興味がなかったので、観光名所のことはろくに調べもせずにやってきてしまったのだった。

「うわ、でっか!」

河原に降り立った光太は、ぎゃはははと笑いながら岩畳に登り始める。

砂浜から岩畳の平らな部分までの高さは光太の身長よりも高いが、注意すれば登ることのできる傾斜だ。しかし岩肌に階段状のものは勿論なく、ぼこぼこした岩肌を注意深く足元を確かめて登る必要がある。周囲の家族連れも幼児は大人が抱っこして登っているし、サンダル履きの女性は脚を岩畳にかけてから不安げな表情になって、登るのをやめていた。光太もつっかけるだけのサンダル履きだ。

「おい、やめとけ、転ぶぞ」

「えー」

不満げな声を出す光太に、俺は左側の河原の光景を訪ねた。

「あれ、何だ? 舟下り?」

河原の砂浜には一個の掘立小屋といくつかのテントが建てられており、近くの看板に”長瀞ライン下り 大人¥1600〜”と書いてある。テントの下には順番待ちなのか人々が並んでおり、暑そうに汗を拭いたりペットボトル飲料を飲んだりしていた。

砂浜には今まさに一艘の舟が着いたところで、舟頭の指示に従って客が続々と降りているところだった。十数人が乗ればいっぱいになる小さな舟に限界まで人が乗っていたようで、皆、オレンジの救命胴衣に、日除けの麦わら帽子をかぶっている。腕章をつけた女性が救命胴衣と麦わら帽子を回収しているところを見ると、舟客全員に貸し出しているようだ。

着いたばかりの舟の左隣には空の舟があって、そちらはテントで並んでいた人々が女性から救命胴衣と麦わら帽子を受け取りつつ乗り込み始めている。どうやらこの河原はライン下りの発着所らしい。

掘立小屋はカウンターに”チケット売り場”と書いてあり、売り場ではない面にLサイズの写真が何枚も一面に貼ってあった。様子を観察していると、どうやら写真を売っているようだ。遊園地でよくある、アトラクション中に写真を撮られて、現像したものを買いたい方は注文してください、というやつだろうか。

「あの舟はライン下りだよ。オトさん、知らないの?」

光太はあっさりと答える。

「荒川の急流を舟に乗って下って、長瀞の自然と景色を楽しもう、っていうやつ。有名だけどね?」

「ふうん」

「乗りたい? つきあうよ」

光太はもう岩畳への興味を失ったらしい。俺は看板の”大人¥1600”の文字を思い出し、「やめとく」と答えた。

「近くに座って休めるところはないか、疲れた」

 

3 スマートフォンの検索を駆使して光太が見つけ出したのは、白い外壁に下半分が青いタイル張りの瀟洒なカフェだった。

岩畳から少し歩いたが、荒川沿いの立地で窓から川がよく見える。

店内は十五人も人が入ればいっぱいになるくらいの広さで、黒いシックなテーブルと椅子が五組、壁や観葉植物を使って互いの視線を遮るように配置されていた。

俺と光太は最奥の窓際の席に座った。真夏の昼下がりで休憩したい人間が多いだろうに他に客のいないわけは、ここが商店街から少し歩くことと、カフェの入り口にあるボードに大きく”(仮)営業中”と書いてあるからだろう。

入口に面したカウンターで俺たちを接客した黒髪の女性は、

「すいません、仮営業中なのでドリンクメニューしか出せないんですが、それでもよろしいですか?」

と了解を求めてきた。

「いいっすよー」

軽い調子で光太が了承し、俺たちはアイスコーヒーとウーロン茶をそれぞれ注文した。

席についてしばらくすると、香ばしいコーヒーの薫りが店内を漂ってくる。

先ほどの女性が淹れてくれているのだろうか。丈の長い黒のワンピースに白いエプロンを着けた清楚な女性だった。目立たぬように配慮している感じはあったがなかなかグラマラスなボディだ。制服系を身に付けると色気が倍増するタイプの女性がいるが、彼女もきっとそうだろう。色白で顔立ちも整っていてなかなかの美人……などと目をつぶって考えていたら、鼻先にコーヒーの薫りがした。

「お待たせしました。アイスコーヒーに砂糖とミルクはお使いになりますか?」

女性店員がテーブルにグラスを置きながら尋ねてくる。

目の前に白いエプロンに包まれた巨乳が迫って、俺は「んん”っ」とせき込んで目をそらしながら「……ブラックで」と言葉少なに答えた。

「オトさん、シュガーなくせに無糖派だよねー」

光太が茶化す。

「うるさい」

俺はぶっきらぼうに言うと、無言でアイスコーヒーにストローを突っ込んだ。

 

アイスコーヒーはなかなか美味だった。俺はコーヒーには詳しくないが、そこらへんのコンビニコーヒーよりは確実に美味い。

光太はウーロン茶をあっという間に飲み干し、からころとグラスの中の氷を揺らして遊んでいる。

「オトさん、これからどうする? 集合時間までまだだいぶあるけど」

ストローを口に挟んでぺこぺこ揺らしながら光太が尋ねてきた。

「そうだな、もう少しここで休憩して、それから土産屋を……」

覗くか、と言いかけて、俺は窓の外の光景に目を疑った。

川面を一艘の舟が流れていく。

それはいい。

舟には前後にそれぞれ竿を持った舟頭と、オレンジの救命胴衣と麦わら帽子をかぶった客がぎっしり乗っている。

それもいい。

客の中に見覚えのあるアイボリーのワンピースを着たぽっちゃりめの女子が乗っていて、隣にいる黒いTシャツを着た男子(顔は麦わら帽で見えない)に笑いかけている。

……これはよくない。

「……光太」

「ん?」

ストローを咥えたままの光太が間抜け面で返す。

「女子三人は神社に行くっつってたよな……?」

「そーだよ。パワースポットなんだって」

光太は窓の外の舟に気づきもせず、のんきに返す。

俺は椅子の背にかけていたデイバッグからスマートフォンを取り出し、手早く操作してやっさんのインスタグラムを開いた。

最新の写真は説明によると境内の売店の焼き団子だ。写真をさかのぼると、本殿や境内の写真も出てくる。間違いない、やっさんは神社に行っている。だが、例によって彼女のインスタグラムは風景や食べ物の写真だけで人が写っていないので、他のふたりが本当に同行しているか、確認のしようがない。

俺は諦めて、三園さんのインスタグラムを開いた。彼女の最新の写真はおみくじの画像だ。神社で引いたのだろう、大吉と書かれた紙を顔の横に持ってきてピースサインをつけて自撮りしている。彼女は基本、人物は自分ひとりしか載せない。大半が自撮りで、残りは他人に撮ってもらった自分の写真、そして食べ物、風景、小物や読んだ本など。ネットリテラシーの高い友人たちで大変結構である。……この場合は、全く逆の意味だが。

肝心の佐藤茉莉はインスタグラムもTwitterもやっていない。正確には、やっているのかもしれないが教えてもらっていない。

「くそっ」

俺は舌打ちして、茉莉の隣にいた黒いTシャツの男が誰か考えることにした。

茉莉の性格からして、ナンパはありえない。声をかけられた瞬間に彼女が逃げるだろう。

と、すると、ここにいない大学のグループの男ふたりのうちどちらか。Tシャツの色を思えば考えるまでもない、札所巡……!

「あんにゃろう……さも女の子には奥手ですって面してちゃっかりかよ……後でボコす……」

突然据わった目で腕を組み、ぶつぶつしゃべりだした俺を前に、光太は訳も分からず目を白黒させていた。

 

4 数時間後。待ち合わせの長瀞駅前に、女子三人と札所、そして小柴はほぼ同時に現れた。

ご丁寧に女子は三人で固まってきたし、札所と小柴も連れ立って歩いてきたが、俺の目はごまかせない。

近づいてきた札所が手を挙げてあいさつしようとした瞬間に、ずいと踏み込んで上から札所をにらみつけた。これが背の低い彼には相当の威圧感があったようで、怯えた表情で後ずさる。

「ちょっとオトさん。どうしたのよ、巡くんがどうかした?」

やっさんがさっそく仲裁に入った。しかし、彼女も向こうの手のものだ。言うことを聞いてはいけない。

「どうしたもこうしたもねーよ。お前、茉莉とライン下りの舟乗ってただろ」

思い切り声を低めて言うと、周囲の空気がざわつくのを感じた。

札所は真っ蒼になって両手を顔の前で振るが、嘘なのはわかりきっている。

「オトさん、めぐっちは小柴くんとロープウェイに乗って山に登ってたのよ。ライン下りなんてできるわけないじゃない」

三園さんも札所に味方する。札所を背にかばって、俺の前に立ちはだかる。姿勢の良い彼女が札所を後ろにすると、まるで正義のアニメヒロインが逃げ遅れた一般人を守っているかのようだ。

「ふざけんなよ。茉莉が舟の上で黒いTシャツの男に笑ってんの、俺、カフェの窓からこの目ではっきりと見たんだぞ。クソ、おとなしい面して人んちのものに手ぇ出しやがって……」

「オトくん!」

鋭い声を上げたのは厳しい表情をした茉莉だった。

「変なこと言わないでよ、私はやっさんとまゆまゆと宝登山神社に行ってたんだから! ライン下りの舟になんか乗ってない!」

俺はぐっと詰まった。こうも本人の主張が強くては、舟にふたりが乗っていたことを認めさせるのは苦労しそうだ。

「そっ、そうだよ、オトさん」

札所が震える声でショルダーバッグから紙の束を取り出した。

「俺は小柴とロープウェイ乗って、山頂の小さい動物園に行ってきたんだから! サルに餌も上げたし!」

見ると、札所が持っているのは動物園のチケットと園内地図も兼ねたパンフレットだった。目立つ位置に”宝登山小動物園”と書いてあり、確かに、実際にその地へ赴かなければ手に入れられなさそうだ。

小柴が無言で札所の背後に立ち、彼の肩に手を置いた。

「オトさん、俺も保証します。札所は俺とロープウェイに乗って、動物園に行きました」

彼の自由な方の手には、いつの間に取り出したのか、札所の手にしているのと同じチケットがあった。

俺は反論の余地を失って立ちすくんだ。

(じゃあ、俺の見た舟の上のあのふたりはいったい……?)

むなしく口をつぐんだ俺に、光太が空気を読まない明るい声で話しかけた。

「喧嘩、終わった? 早く西武秩父駅に行こうよ〜。俺、あそこの隣の温泉、楽しみにしてるんだ!」

 

5 俺は陽が陰り始めた長瀞の商店街をのしのしと歩いていた。

真夏ゆえ陽が落ちるにはまだまだ早いが、商店街には帰路につく観光客のあわただしさが漂っている。

あれから、思いついたことがあって、俺はグループと別れて行動していた。

もしかすると、決定的な証拠が手に入れられるかもしれない。

俺は意を決し、商店街を抜け、岩畳へと続く階段に足を踏み出した。

 

「ライン下りの写真? そりゃあ一応予備に複数枚印刷してあるけど、お客さまのプライバシーにかかわるかもしれないから、見せるのはちょっと」

河原の掘立小屋でライン下りのチケットと川下りの舟上の写真を売っていた中年女性は、日焼けした片手を頬に当てて、困った様子で首を傾げた。

もう今日は営業を終了しているらしく、舟着き場だった河原に人影はなく、舟も見当たらない。俺は帰宅直前の売り子さんを運よく捕まえられたわけだ。

「お願いします、俺、今日川下りしたんですけど、写真買い忘れちまって。時間も大体覚えてますし、見つけたら買いますから!」

買いますから、の一言が効いたのかどうか、売り子の女性はしぶしぶ俺にその時間帯の写真を見せてくれた。言うまでもない、俺が茉莉と札所を舟上で目撃した時間帯だ。

「……あれ?」

俺は何度も写真を眺めた。

いない。

時間は合っているはずなのに、舟も合っているはずなのに、その写真のの舟の乗客に、見覚えのあるアイボリーのワンピースの女の子も、黒いTシャツの若い男もいなかった。

「……あれぇ?」

売り子の女性が不審げな顔つきで俺を見ている。

 

6 それからどこをどう歩いたのか、俺は商店街から外れて見覚えのあるカフェの前に来ていた。看板は変わらず”(仮)営業中”とあり、まだ内部に人がいる気配がする。

(さっきの美人の店員さんに癒されたい……)

俺はふらふらとカフェに足を踏み入れたが、カウンターから歯をむき出しにして俺に顔を向けたのは先ほどの清楚な女性店員とは程遠い長身猿顔の男だった。ギョロ目で耳がでかく、威嚇しているかのような獰猛な顔つき。

「ぎゃあ!」

反射的に逃げ出そうとして、俺は脚をもつれさせてその場で転倒してしまった。

「おや、大丈夫ですか、お客様」

意外にも渋い声で話しかけ、猿顔の男は俊敏な動作でカウンターから出てきて俺の立ち上がるのを手伝った。その間も恐ろしい表情を崩さず、しかし俺のことを気遣い続けている様子を見ると、どうもあの顔つきは笑顔のつもりらしい。なぜアンタはここで白シャツに黒エプロンを着けてドリンクを売っているんだ。接客業をしてはいけない種類の人間だろ、その顔。

「怪我はございませんか、お客様」

猿顔の男は俺のズボンについた土ぼこりを払いながら尋ねてくる。

「大丈夫です……」

俺は礼を言いながらカフェの店内の様子を窺った。

予想通り、がらんとしている。どんなにドリンクと涼を求める客もカウンターで猿顔男を見てUターンしたのだろう。

しかし、助け起こされた手前、このカフェでドリンクを頼まないわけにはいかない。

俺はできるかぎり男を顔を合わせないようにしながら「アイスコーヒー、ブラックで」と注文し、昼間着いた席へと早足で向かった。

暗くなり始めた川面を眺めていると、自分が目撃した舟上のふたりが幻だったように思えてくる。

そう、あの時もこんな風にコーヒーの薫りがして、それから……。

「お待たせしました」

低い声がして、目の前に紙製のコースターとストローが置かれ、アイスコーヒーの入ったグラスが差し出された。

「どうも」

と俺は答えてストローを手に取ったが、男はなぜか立ち去らずにそのままテーブルの傍についている。

「何か?」

「失礼ですがお客様、本日は二度目のご来店ですか?」

相変わらず獰猛な笑顔だが、それ以上に心臓に衝撃を与えたのはその発言内容だった。

「そ、そうですけど、どうしてわかるんですか?」

「いえ、大したことでは」

男はにっこり(と本人は思っているであろう)笑顔で曖昧に頷くと、音もなくカウンターへ戻っていった。

俺はしばし居心地悪くアイスコーヒーをすすっていたが、やがて我慢できなくなり、カウンターの猿顔男を呼んだ。

「あの、どうして俺がこの店来るの二度目ってわかったんですか?」

猿顔男は首を傾げ、それから頷いて例の獰猛な笑顔で答えた。

「この店はテーブルや椅子の位置が、座った時互いに視線が合わないよう複雑な配置になっていますでしょう。初めてこのお店に来た人がまっすぐ一番奥の席へ行くことはまずできません。そして、このお店は今日から(仮)営業中なんですよ」

男の説明はそれからも続き、諸事情で料理人の引っ越しが遅れており店が本格的に開店できないこと、時季的に来客が見込めるため、それをもったいながったオーナーがせめてドリンクだけでも売ろうと自分たちを雇ったことなどを告げた。

「普段は秩父市内で便利屋をしております、私、草鞋勝也(わらじ・かつや)と申します」

そう言って男はにっかりと笑った。

「じゃあ、普段は接客業ばかりというわけではないんですね」

俺は心底納得した。この男が接客した日には、店は瞬く間に閑古鳥が鳴き、早々に潰れることだろう。

「そうですね、普段はおばあちゃんの家の電球換えから犬の散歩、果ては浮気調査や失せもの探し、なんなら殺人事件の捜査まで何でも致します、便利屋AIAIでございます」

殺人事件云々はさすがに冗談だろうが、まるで探偵みたいな営業内容だな、と俺は思った。

「……じゃあ、俺が今日経験した不思議な話の謎解きも、頼んだらしてくれますか?」

そう言ってしまったのは、疲れ果てた末の気の迷いだとしか思えない。

しかし、目の前の男、草鞋は「喜んで」と頼りがいのある(多分気のせいだ)獰猛な笑顔を見せてくれたのだった。

 

7 「……ふむ」

客はもう来ないと見限ったのか、草鞋はどっかりと向かいの席に座り込んで俺の話を聞いた。

長身で手足が長いから、椅子やテーブルの上で腕や脚が狭そうに縮こまっている。

「私が思うに」

草鞋は顎に片手をかけ、くいと横に傾けた。

「君は妹さん離れをするべきだろうな」

「は?」

思いもよらない言葉に俺は頓狂な声を上げた。

「ちょっと待てよ、今の話のどこに妹が——」

「いただろう、話題の中心に。双子の兄の佐藤オトくん」

本名をズバリ言い当てられて俺の心臓は飛び上がった。

「君の妹さんが男とライン下りの舟に乗っていたのはおそらく事実だ。しかし相手が違う。札所巡じゃなくて小柴樹だ」

草鞋はズバズバと推理を話し始める。

「でも、Tシャツの色が」

「小柴樹のTシャツの色は青だったな。ライン下りは急流を下るからたまに水も被る。水に濡れた青いTシャツがさらに麦わら帽子の陰になれば、黒と見違えることもありうる」

確かに、黒いTシャツが実は水に濡れた青いTシャツだと言われれば、そう見えないこともないような気がする。

「じゃあ、ふたりとも動物園のチケットを持っていた、あれは?」

「札所巡はショルダーバッグからチケットと園内地図も兼ねたパンフレットを出したんだったね。しかし考えてもみたまえ。宝登山”小”動物園だ。子どもならともかく、大学生が園内地図を必要とするほど込み入った場所かな?」

いつの間にか草鞋の口調から敬語が取れていた。じゃあ何語だと言われてもうまく言えないのだが。

「札所巡は地元民だ。かき氷が初体験だからと言って、長瀞に来たことがないとは限らない。彼は結構ずぼらなところがあるから、以前に親戚の子どもと宝登山小動物園に来た時に、パンフレットとチケットを鞄に入れっぱなしにしていたのではないかな。君の追及にとっさにそのことを思い出して、チケットとパンフレットを出して見せたんだ」

「じゃあ、小柴が見せたチケットは?」

「それこそ札所巡が今日買ったチケットだ。おそらく、ズボンのポケットにでも入れていたんじゃないか。小柴樹が彼の背後に回った時に、そのチケットを抜き取って君に見せた」

「……」

俺の中で茉莉の相手の男があっという間に札所から小柴に入れ替わった。

「あの野郎、小柴……!」

俺は一瞬怒りで燃え上がり、しかしハッとして草鞋に尋ねた。

「でも、川下りの写真は? 俺が調べた写真にはどこにも茉莉も小柴も写ってなかったぞ?」

草鞋はそこで右手の人差し指を立てる。

「そこだ。君の認識には重大な欠損がある」

草鞋は右から左に、とんとんとんとテーブル上の三か所を指さした。

「天変地異でも起こらない限り、川は一方通行で流れている。つまり、向かって右から流れている川は、そのまま左側へ流れる。逆流はあり得ない」

俺は何を当たり前のことを言っているんだと草鞋を見た。

「そこで注目すべきは河原で君が見たライン下りの光景だ。舟がどう動くか考えてみたまえ。客が下りる舟と、乗る舟、どうしてそれが一か所に着く?」

「……あ!」

俺が河原で見た光景では、舟から下りる客と舟に乗り込む客は同じ河原にいた。俺は単純にそこが川下りの発着所だと思ったのだが、よく考えると海ではないのだ。そんなわけない。

「あの場所の上流と下流に、舟乗り場と舟降り場がある……?」

「そうだ」

草鞋は頷く。

「ライン下りは二コースある。一般により急流と言われる親鼻橋から岩畳までのコースと、比較的緩やかと言われる岩畳から高砂橋までのコース。君の見た発着所というのは岩畳だな。岩畳のチケット売り場で売っている写真は当然、そこで降りる親鼻橋から岩畳までのコースの舟の写真だ。君が調べて写ってなかったところを見ると、ふたりが乗ったのは岩畳から高砂橋までのライン下りなんだろう」

「まじかよ……」

俺の苦悶のうめきに、草鞋は呆れた様子で声をかける。

「しかし、茉莉さんと小柴樹に非があるとは言えない。大学生の男女が交際するのはごく普通のことだ。この件で唯一問題があるのは、茉莉さんの兄である君の態度だ」

「だから、なんで俺が茉莉の兄だって!」

「今日の昼、ここで働いていた私の部下が接客中に不思議な会話を聞いた。特徴から言って君と友人の高迫光太だろう。どちらかがこう言ったそうだ。『オトさん、シュガーなくせに無糖派だよね』」

俺はぐっと言葉に詰まった。

「部下は意味が分からないと首をかしげていたが、私はこう考える。”オトさん”とやらは友人に”シュガー”なるあだ名をつけられる特徴の持ち主だ。じゃあ甘党なのかといえば無糖派だという。つまり”シュガー”は本名にかこつけられている。シュガー、つまり砂糖。つまり”さとう”、彼の苗字は”佐藤”」

俺は言葉もなく草鞋の推理を聞くしかなかった。

「日本人で一番多い苗字と言われる佐藤姓だ。大学の何の脈絡もなく集まった七人グループにふたりいたとしても不思議ではない。しかし、そのふたりが男女で名前がオトとマリだと、少し違う連想が働く」

草鞋は軽く俺の顔を窺ったが、俺は何も言わなかった。

「オトとマリ。このふたつの名前を自分の子どもたちに付けた文学史上の有名人を私はひとり知っている。森鴎外」

草鞋は右の人差し指でテーブルに”於菟””茉莉”と書く。

「当時としては珍名だが、今だとそうでもないのかな。君の名前がどういう字を書くか知らないが、ご両親のうちどちらかが森鴎外のファンなんだろう。違うかい?」

草鞋はやや上目づかいで俺を見やった。

俺は目を必死にそらしながら、「そんなの、偶然かもしれないじゃないか」と苦し紛れの言い訳を放つ。

しかし、草鞋はふむ、と呟いただけだった。

「君と茉莉さんが兄妹であることはご友人たちの反応からも想像がつく。君は茉莉さんと自分が恋人であると私に思い込ませたいようだったが、だとしたら、ご友人たちは茉莉さんが浮気するのを全員一致して君に隠していたことになる」

確かに、状況はそうだ。

「だが、インスタグラムに必要以上に情報を載せないほどネットリテラシーが高く、防犯意識の強い友人たちが、そんなトラブルの元をグループ内で抱え込むだろうか?」

草鞋はまっすぐな目で俺を見て、続ける。

「つまり、君が茉莉さんと小柴樹の交際を認めないことは、グループ内ではそれほどトラブルと捉えられていないことになる。とりあえず今は黙っとくけど、そのうち言わないとな、くらいの感覚なんじゃないか。そうなると、それは君と茉莉さんが恋愛関係であるという前提ではありえない。恋愛関係ではないけれど、知らないところでこっそり交際していると許せない……非常に近しい親戚、あるいは幼馴染。先ほどの名前の件と考え合わせれば、ふたりは兄妹だ。それに」

草鞋は右の人差し指を立てた。

「駅前で札所巡に詰め寄った時、君は茉莉さんを”人んちのもの”と言っている。恋人なら”人のもの”というはずだ。”人んち”と口にしている時点で、家族であることを告白している」

俺は草鞋に白旗を上げた。

 

8 西武秩父駅の改札口に着くと、湯上りでさっぱりした様子のグループの面々が俺を待っていた。

気のせいか茉莉と小柴の立ち位置が近い。

「もう夜なのにま〜だ暑いよね! オトさん、お風呂入んなくて大丈夫?」

俺の視線に敵意がないことがわかったのか、やっさんが率先して声をかけてくれた。札所はぎこちなく俺に微笑みかけ、三園さんは隣の施設でもらったのであろう広告入りうちわで湯上りの肌を扇いでいる。光太はどこで買ったのか饅頭をもぐもぐと食べていて、茉莉はもじもじと皆の後ろで俺の様子を窺っていた。小柴はそんな茉莉とつかず離れず、相変わらず感情の読めない表情で立っている。

俺は別れる直前の草鞋の言葉を思い出した。

(君の友人たちは一致団結して君にふたりの交際を隠そうとした。つまり、全員ふたりの恋を応援しているということだ。視点を変えて見たまえ。君の友人たちは自分の友達が不幸になると思っていてもその交際を放っておくような人間かね? 君の友達は、そんなに人を見る目がないのか?)

「……あるに決まってるじゃねぇか」

俺はひとり呟いた。

「オトさん、何か言った?」

近づいてきた光太が食べかけのブタの形をした饅頭を手に、不思議そうに俺を見上げた。

 

9 「あの子たち、巡くんの同級生だったんですか〜。どうせなら巡くんもカフェに寄ればよかったのに、どうして来なかったんでしょうね」

翌日、便利屋AIAI事務所。

今日はウェイトレスの制服ではなくごく普通の事務服を着ているAIAI事務員の奈津子(なつこ)は、草鞋から昨日の話を聞いて、そう感想を漏らした。

「札所くんはたぶん、長瀞のかき氷をまだ見ぬ恋人との初デートで食べる予定だったのさ。それを断り切れずに大学の友人たちと食べてしまったことを後悔して、自分に罰を与えるために炎天下の動物園を選んだのだよ。変なところで修行僧のように生真面目だからな、彼は」

草鞋はあくびをしながらデスクの椅子にふんぞり返った。

昨日はカフェの片付けで夜半過ぎまで働いていたので、寝不足だ。

「まあ、私は佐藤くんの話を最後まで聞くまでもなく、茉莉さんのデートの相手は小柴樹だと分かっていたがね」

草鞋はふふんと鼻息を荒くする。

「どうして?」

奈津子の問いに、

「だって、兄の目を盗んで妹とこっそり川下りデートするなんて度胸、札所くんにあるわけがないじゃないか!」

奈津子は草鞋にそっと声をかけた。

「それ、巡くんには言わないでおいてあげてくださいね……」

(おわり)