便利屋AIAIの事件簿(10)〜小鹿野ダリア園・すれ違いの謎〜

便利屋AIAIの事件簿(10)〜小鹿野ダリア園・すれ違いの謎〜

 

「エンジェルヒップ、サフラン、ストロベリークリーム」

「ふれんど、きゅーてい、めろでぃはーもにー!」

ぷっくり丸顔に大きな目の、顔立ちのよく似た幼い兄妹が、ダリア園の花畑の中を連れ立って歩いていた。ブルーとピンクのTシャツをそれぞれ着て、お揃いのハーフパンツを履いている。

空の真ん中には太陽が昇り、夏の終わりの風が山間の開けた土地にあるダリア園を流れていった。

ダリア園のダリアはまだ三分咲きというところだった。あちこちにつぼみは見えているが、大輪の花を咲かせている箇所は少なく、緑色の茎や葉しか目につかない箇所もそこかしこにある。

しかし、それでも、球形に開いたダリアの花々は華々しく美しく、訪れる者たちの目を楽しませていた。

「チェリードロップ、ポンポンショコラ!」

兄妹が口にしているのは、ダリアの花畑の列の前に立てられた小さな看板の文字だ。ダリアは品種ごとに一列ずつ植えられており、看板にその品種名が書いてあるのだった。

「お、偉いな、ふたりとも。もうカタカナが読めるのか」

兄妹の父親らしい男が、兄の方の頭にぽんと手を置いた。兄妹に似ず細面の繊細な顔立ちで、体が細いせいで背が高く見える。

赤いTシャツに黒いジーンズといういでたちの彼は、ふと兄妹が読めなかった列のダリアの看板に目を留め、いいことを思い付いたとでもいう風に、にんまりと目を細めた。

「おぅい、礼一(れいいち)、礼門(れいもん)、来夢(らいむ)。そろそろお昼だぞ、おばあちゃんがそばを食いたいそうだ」

そこへ、兄妹の祖父で男の父とみられる年配の丸顔の男性が、入場券売り場の方から声をかけた。

「おそば!」

妹の方がぱっと目を輝かせて、ダリア園の小道を祖父の元へ向けて一気に駆け出した。兄が慌てて追いかけ、父親は大股で歩いてその後を追う。

時は九月の始め、日帰りの家族旅行での一幕だった。

 

「おはようございまーす……」

時は少し流れて、九月の半ば。

札所巡(ふだしょ・めぐる)は疲れた様子でバイト先の便利屋AIAIの事務所のドアをくぐった。机で事務作業をしていた釈氏奈津子(しゃくし・なつこ)が気づいてすぐ声をかける。

「どうしたの、顔色が悪いわよ。調子が悪いなら、今日は所長に代役を頼んでも……」

「いえ、大丈夫です、奈津子さん。これは病気じゃなく心労なので……」

巡は薄く笑って奈津子の気遣いを断る。奈津子はますます心配して、

「心労って、大学で何かあったの? それとも、うちのバイト中に変な人に絡まれたりした?」

「いえ……」

巡はゆるゆると首を振る。

奈津子はまさか、と口に手のひらを当てて、

「ひょっとして、所長が今話題のパワハラを……?」

「……奈津子くん、何か私に思うところでもあるのかね?」

事務所の奥のデスクで苦手なパソコン相手に四苦八苦していた所長の草鞋が、冷や汗をかいた額に血管を浮き出させて奈津子に尋ねた。

「あら、何もありませんわ。できもしないパソコン作業で何時間も無駄にしているとか、ちっとも思っていませんから」

奈津子はにっこり笑って見せた。

草鞋は顔を横に背け、

「どう聞いても思っているじゃないか」

と小さい声で呟いてから、

「札所くん、今日の君の仕事は大型犬の散歩が二件だ。疲労だろうと心労だろうと気を抜いて仕事して犬に逃げられでもしたら困る。調子が悪いなら今日は帰ってくれて構わないぞ、犬の散歩は私が行く」

しかし、草鞋の言葉に、ますます巡は具合を悪そうにした。

「勘弁してください。家に帰るくらいなら犬の散歩に行った方がマシです。大丈夫、できますよ」

巡の言葉に、草鞋と奈津子は首を傾げた。

札所家は今時あまり見ない四世代同居の家庭である。巡の祖父母、両親、兄夫婦、そして彼らのふたりの子どもが巡の家族だ。家族九人で古いながら大きな家に住み、子どもたちの間で多少の喧嘩はあれど、仲良くにぎやかに穏やかに暮らしているはずだった。

「どうした、君が家に帰りたくないとは珍しい。何かあったのか」

草鞋の問いに、巡ははぁ、と大きなため息をついた。

来客用のソファに座り、真剣な顔で両膝の上で手を組み合わせ、祈るようなポーズをする。

「実は……義姉(あね)が甥と姪を連れて家出をしてしまって」

「ほう?」

草鞋と奈津子が興味深そうに反応した。

「義姉が言うには、兄が浮気をしたって言うんですけど、兄には心当たりはないそうで」

「ほう」

「というか、どう見ても兄は義姉にべたぼれですし、浮気なんてするはずないと思うんですけど」

「ほう」

「それでも義姉は兄が自分で浮気したって告白してきたんだって言い張って、群馬の実家に帰って兄の『話を聞いてくれ』という懇願には耳も貸さず、このままでは離婚かという勢いで怒っているんです」

「ほう」

「甥と姪がいない家は火が消えたようで、母も祖母も元気がないし、父と祖父はお通夜みたいな雰囲気だし、兄も今では説得する気力も失って半死人のような……おふたりはとてもお元気そうですね」

巡は目をらんらんと輝かせて巡の話に聞き入っている草鞋と奈津子を見て言った。

草鞋は机の上に乗り出していた体を椅子に戻し、おほんと咳をしてから、

「それは大変だな」

と感想を漏らした。

「君の兄上には以前一度お目にかかったことがあるが、札所くんとは似ても似つかぬ細面のイケメン……失礼、繊細な顔立ちの殿方だったと記憶しているが……」

「所長、失礼さをごまかせてません」

巡が静かな声で冷静に指摘する。

「そうですね。奥様も札所くんのお義姉さまとはとても信じられない、華やかで可憐な美貌の持ち主で……失礼」

奈津子が咳をする。

「奈津子さん、それは別に失礼じゃないので謝らなくていいですよ」

「とにかく、美男美女のご夫婦だったと記憶している。なぜあのふたりからあんな丸顔の兄妹が生まれたのか、隔世遺伝とは実に恐ろしいと思ったものだ」

「所長、ちょっとは本音を隠してください。僕には可愛い甥と姪です」

巡は丁寧な口調ながら、さすがに怒りを込めて草鞋に注意した。

「失礼」

草鞋と奈津子の声が重なり、巡は奈津子まで隔世遺伝を恐ろしがっていたのかと少しショックを受けた。

「とにかく」

草鞋がもう一度、今度は力を込めて言った。

「札所くんのお兄さんご夫婦はお似合いの仲良し夫婦だったはずだ。それが浮気問題でこじれるとは、何かおかしい」

草鞋は力強く断言する。

「これは、私でなければ解けない謎があるかもしれないな」

草鞋はにやりと笑った。

 

好奇心の塊になった草鞋に、兄の浮気の心当たりはないか、ないならば浮気と誤解される心当たりはないか、義姉の家出はいつからだ、どのようにして義姉は浮気を知ったのだ等、矢継ぎ早に質問されて、巡は内心、草鞋がパソコン作業からの現実逃避を図っているのではないかと疑いながら、質問に答えていった。

答えながら、義姉が家出した日の出来事の詳細を思い出し、いっそ丸ごと草鞋に話すことにする。

思い出してみると、あの日の兄は様子がおかしかったし、義姉の家出の仕方は不自然だった。草鞋に話せば、新しい見方を教えてくれるかもしれない。

 

「巡、急いでくれ。このままじゃ約束の時間に遅れる」

助手席に乗り込んできた兄に急かされて、巡は自動車のアクセルを踏み込んだ。

九月十日、午後三時半。

巡は市役所に兄を迎えに来ていた。

一回り年上の兄・礼一は、市役所勤めの公務員である。地元の公立高校から国立大に進学し、そのまま新卒で公務員になった地味で堅実な人生を送っている兄は、その人生の地味さとはやや趣が異なって、なかなか顔立ちが派手だった。

成長過程において、成績が良く運動神経が良く顔もよいという三拍子そろった兄に、巡のコンプレックスが刺激されなかったとは言えない。しかし、さすがに十二歳も離れていれば、コンプレックスも薄れようというもので、兄弟仲は悪くないのである。

「どこだっけ、両神のダリア園? なんでそんなところで待ち合わせしたんだよ」

巡はぶつくさ言いながら、小鹿野へ向かって自動車を走らせた。

助手席の兄は膝の上にぶわっと派手なピンクの花束を乗せて、

「仕方ないだろ、どうしてもそこじゃないとダメなんだよ」

と理由ともいえない理由を説明する。

「どうせ午後から仕事を休むなら、美果(みか)さんとレモンとライムと一緒に四人でダリア園へ行けばいいのに。どうしてわざわざ俺が車を出して兄貴を送らなきゃなんだ?」

美果、というのが義姉の名前である。実家が群馬でリンゴ農園を営んでいるので、”美しい果実”が名前の由来だそうだ。”果実”つながりで子どもたちの名前を柑橘系にしたのだろうか、と巡は思っているが、なんとなく怖くて、彼女に確認したことはない。

「ダメなんだ。ふたりが出会うのは、ダリア園じゃなきゃダメなんだよ。じゃないと、感動が半減してしまう」

礼一が意味不明の主張をする。

巡はここで、また、何かを仕込んでいるな、と気づいた。

礼一はサプライズが好きなロマンチストなのだ。

今の妻にプロポーズするときも、巡にはとても真似できない迂遠な(本人曰く、用意周到で念入りな)サプライズプロポーズをしたという。

数か月かけてアルファベット一文字の入った小物などを彼女に贈り続け、彼女の誕生日に「贈り物を並び変えてごらん?」のメッセージと共に彼女をホテルのディナーに招待したという。

最初それを聞いたとき、巡は(美果さんが”Will You Marry Me?”という文章を組み立てられない可能性は考えなかったのか?)と疑問に思ったものである。

結婚後、義姉に尋ねてみると、誕生日にホテルに呼び出された時点で求婚だと見当がついていたので、組み立てるのに苦労はなかったそうだ。サプライズと見せかけてバレバレだったわけである。

こういう手間がかかる割にわかりやすいサプライズが兄の特徴なので、巡はその時、深く追求しなかった。

おそらくダリア園の満開のダリアの前で、再びプロポーズの真似事をするとか、そういう類のサプライズをするものだと思ったのだ。

九月十日は兄夫婦の結婚記念日なのである。

自動車は山道をぐんぐん登って、山間のダリア園の駐車場に滑り込んだ。

巡の想定より山奥にあったので時間には少々遅れたが、まぁ、許容範囲だろう。

自動車が停止したとたん、玲一は助手席から飛び出して、まっすぐにダリア園の入場口の方への駆けて行く。

巡は少し休憩してから帰ろうと、兄に続いて、ゆっくりと自動車から降りた。

駐車場から少し離れた場所に、見上げるような背の高い二本の杉がある。

”夫婦杉”と看板が立っているその杉と杉の間には、人が四、五人入れるほどのお堂が建っていた。”諏訪大明神”と入口に掲げられたそのお堂の奥は、暗くて何があるのかよく見えない。

好奇心に駆られてお堂に近づこうと足を踏み出した時、巡の耳に兄の悲鳴が響いた。

「帰ったぁ!?」

声の方を見れば、礼一がダリア園の入場券売り場の女性に向かって、泣きそうな顔で事情を問いただしていた。

「帰ったって、本当ですか? 四歳の女の子と五歳の男の子を連れたロングヘアの女性が、もう、帰ったっていうんですか?」

入場券売り場となっている小屋の中に立ち、カウンターから顔を出している中年の女性は、困ったように頷いた。

「えぇ、先ほどお帰りになりましたよ。男の子と女の子を連れた女の人は、今日はその人だけだから、間違いないと思いますがねぇ」

「そんな……」

兄ががっくりと肩を下す。

気のせいか、手にしている花束の精彩まで、一気に欠けたように見えた。華々しいピンクが、濁った肉の色に見える。

巡は意気消沈してしまった様子の兄を助けるべく、そちらに足を向けた。

夏の終わりの涼しい風が吹く。

昨日とは大違いだな、と巡は思った。昨日は、一時的に気温が真夏に戻って、暑さ対策が大変だった。猛暑というより酷暑に近かった今年の夏の、最後の念押しのような一日だった。

(ダリアも、今年は成長が遅いな)

巡はおよそ一年ぶりに見たダリア園のダリア畑を見て、そう感想を持った。

(だから、美果さんはがっかりして怒ってしまったんだろうか)

義姉から礼一のスマートフォンに、浮気を告白されて怒っている、という内容のメッセージが届いたのは、その日の夜のことだった。

 

「……というわけです。所長、この話から、美果さんが兄が浮気したと誤解した理由って、わかりますか?」

巡は話し終わると、奈津子が入れてくれた緑茶をごくごくと飲んだ。今日は先日ほどではないが気温が夏並みに戻って、熱いお茶が喉を通ると、体が火照って肌が汗ばむのを感じる。

「ふうむ、待ち合わせ場所がダリア園、というのがどうやらミソらしいが」

草鞋はすっかりパソコンを打つ手を止めて、腕を組んでふんぞり返った。

「まだまだ手掛かりが足りないな。札所くん、君、明日は大学は休みだね?」

草鞋の唐突な問いに巡は不思議に思いながら、

「はい、休みですよ」

「なら、明日は暇だな。君にひとつ指令をやろう。群馬のお義姉さんの実家まで、ひとっ走り行って、事情を詳しく聞いてきたまえ」

草鞋は人差し指を巡に向かって突き出した。

「は?」

「ついでに群馬で旬のリンゴを買ってきてくれると助かる。津軽……いや、もう陽光が出る頃か。奈津子くんのお父様はリンゴが好きだ」

草鞋はリンゴの品種まで指定してきた。なぜリンゴを奈津子の父親に、と巡は思ったが、考えてみれば奈津子の父親は秩父のとある企業の社長で秩父では顔が広く、便利屋AIAIをあちこちに紹介してくれている事務所の大恩人である。草鞋はゴマをするチャンスがあるならすっておくのが得策、とでも考えたのだろう。

「夫である君の兄には言えないことも、義弟である君には話してくれるかもしれない。いずれにしろ、このままの状態では仲直りも離婚話も進まないだろう、弟の君が一肌脱いでやると良い」

巡は草鞋の言い分が少なくとも間違ってはいないことを認め、しぶしぶ頷いた。

 

昨日とはうってかわってどんよりとした雲の下を、巡は軽自動車で駆け抜けていった。山間の道路はカーブが多く、普段秩父市内でしか運転しない巡には難しい道のりが続く。山々の緑は夏の盛りから秋の初めに向かって色づきを変え始めており、吹く風も気のせいか冷たかった。

太陽が空の真ん中に上り、昼に差し掛かる時間帯に、巡はとある山の中腹にある果樹園の駐車場に車を止めた。駐車場の隣の果物を露店販売している小屋から、三十代初めと見える女性がにこにこと近づいてくる。

「いらっしゃいませ! ……あら、君、確か礼一くんの」

「弟の巡です。お久しぶりです」

車から降りた巡の顔を見て、女性はすぐに巡が誰かわかったようだ。

「弟くんがお迎えに来たの? 礼一くんは迎えに来れないのかしら。あんなに美果ちゃんに首ったけに見えたのに」

女性は美果の兄嫁であった。美果の実家の果樹園は美果の兄夫婦が継いでいる。もっとも、美果の両親もまだまだ現役なので、継いだ、という表現はまだ正確ではない。

「迎えに来たと言いますか、兄とは話し合いもしてくれないようなので、弟の僕が、代わりに兄に怒っている事情を聞かせていただきたいと思いまして」

「やーだ、そんなにかしこまらなくていいのよ! 美果ちゃんは家にいると思うから、勝手に訪ねてくれる? 私は店番でここから離れられないのよ!」

女性は実年齢よりもおばさんじみた仕草で手を上下に振ると、巡の背を叩いて果樹園の奥の住居へと押し出すようにした。

巡はぺこりと頭を下げると、

「あの、秩父の菓子を持ってきましたので、後で皆さんで召し上がってください」

と、右手の紙袋を見せる。

女性は嬉しそうににんまりと笑うと、

「ありがと、後でいただくわ!」

そして、お礼とばかりに、巡の背中をバチンとはたいたのだった。

 

美果の実家の此花(このはな)家はリンゴ農園としては小規模である。しかし、果物の加工や観光業で売り上げはそこそこあるらしく、その結果、住まいも大きいうえに新しい。

……新しい。

(ウチとはえらい違いだな)

ピカピカの外壁に付けられた呼び鈴を押しながら、巡は内心、ため息をついた。

札所家も建物の規模としては大きいほうだが、いかんせん祖父母の代に建てられたので屋根や壁のそこかしこにひび割れや染みがあったりする。風呂は追い炊きもできない旧式だし、台所も狭い。あらゆる点で美果の実家には大きく見劣りがするだろう。

(家が古いから実家に帰りたい、というのが家出の原因だったら、説得のしようがないな)

巡が暗い気分でそう考えていると、がらりと玄関の黒い引き戸が開いて、見慣れた丸顔の兄妹が顔を出した。

「めぐちゃん!」

「遊びに来たの?」

礼門と来夢の兄妹である。母方の祖父母の下でたっぷりご馳走をもらったのか、血色は相変わらずよく、頬がぷくぷくしている。

「おう。……お母さんは、いる?」

巡は軽く手を挙げてあいさつすると、片手の紙袋を掲げて見せた。

「栗平(くりへい)の栗饅頭!」

ぱぁっと兄妹は目を輝かせて、紙袋を奪うと台所と思しき方向へ駆けて行く。

「お母さーん! めぐちゃん来たー!」

どたどた廊下を駆け抜ける兄妹の声に、ゆっくりと台所の前の部屋の襖が動いた。

「……巡くん?」

巡はその声の主の姿に仰天した。

げっそりと頬がこけ、つややかだった黒髪は手入れもされずぼさぼさ。

以前の美しさがすっかり抜け落ちた、哀れな兄嫁の姿がそこにあった。

 

「ふむ、今年は例年よりも背が低いのだな」

灰色のTシャツにジーンズ、黒いスニーカーという出で立ちで、草鞋はダリア園の中にいた。

空はどんよりと厚ぼったい雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだ。

彼のみぞおちほどまでに伸びたダリアの花々は、美しく満開の花を咲かせているものもあれば、まだつぼみ、といった風情のものまで様々だ。赤、ピンク、オレンジ、白と色とりどりの華やかさは、たとえ灰色の空の下でも目を楽しませてくれる。

「約一万平方メートル、350種、5000株、ね」

草鞋はダリア園のパンフレットを取り出してそう呟くと、湿った土の小路を歩き、ひとつひとつのダリアの花の列をじっくりと観察し始めた。

列の端の看板に書かれた品種名。ダリアの花の色、大きさ。花弁の太さや、咲き方まで。

小一時間ほどもかけてすべての品種を見終わると、草鞋は中腰だった姿勢をぐいと後ろに伸ばし、思い切り伸びをした。

「うーん。……誤解が起きたとするなら、これか」

 

「……というわけで、美果さんから話を聞いてきましたよ」

翌日、巡は便利屋AIAIの事務所の机にどさっとリンゴの入った袋を置くと、そう切り出した。

「ありがとう、巡くん。これ、リンゴ代」

奈津子が机の引き出しから封筒を出して渡してくれる。

巡は礼を言って受け取ると、

「所長のご要望通り、津軽と陽光を入れてもらいましたよ。美果さんのお義姉さんが身内特権で多めに入れてくれました」

「でかした、札所くん。持つべきものは果樹園の身内がいるアルバイトだな」

草鞋は奥のデスクに座って腕を組み、偉そうにふんぞり返っている。

「それで、お姉さんは何と言っていたの?」

奈津子は巡が事務所用にともらってきたリンゴを受け取り、キッチンに向かいながら巡に尋ねた。

「それが、どうも妙なんですよね」

巡も簡易キッチンに立ち、蛇口から水を薬缶に入れながら不思議そうな声を出す。

「美果さんは、兄が”浮気した”という告白をしてきたって、本気で言っているみたいなんですよ」

「ほう?」

「えぇ?」

草鞋と奈津子はデスクとキッチンでそれぞれ興味深そうに頷く。

「美果さん曰く、ダリア園には待ち合わせの前日、自分の車のダッシュボードに置かれた手紙で誘われたそうなんですけれど」

「直接じゃないのかね」

草鞋が意外そうに呟く。

「兄は手紙とか花とか使うのが好きなんですよ」

巡は苦々し気に答え、薬缶をコンロにかける。

「お兄さんは夜のうちに手紙をお義姉さんの車のダッシュボードに置いたのかしら?」

奈津子の疑問に、

「いえ、その日の朝です。義姉はその日、病院の都合で午後三時の出勤だったそうですから。兄とはそのまま待ち合わせまで顔は合わせなかったみたいですね」

巡の兄嫁の美果は看護師なのである。幼い子どもがいるため夜勤はなるべく減らしてもらっているそうだが、それでも一週間に一度は夜勤が回ってくる。いつか完全昼勤になりたいと彼女は願っているが、人手不足のためそれは難しいそうだ。

「それで、その手紙には何と書かれていたのかね?」

草鞋が奥のデスクから立ち上った。そのまま戸棚に向かい、三人分の湯呑と急須、お茶の缶を取り出す。

草鞋にしては珍しく気が利く、とその様子を見て巡は思ったが、横を見ると奈津子が厳しい目線で草鞋に指示を出しているのに気づいた。

事務員に視線だけでこき使われる所長。便利屋AIAIにパワハラやセクハラは縁遠そうである。

「愛する君に伝えたいことがある、小鹿野のダリア園のうんたらかんたらの花壇の前で子どもたちと待っていてほしい、とか、大切な話だから、それからディナーをしつつ話し合いをしようとか、書いてあったそうです」

「う〜ん。浮気の告白をしようとしているといえば、そう聞こえなくもないような」

奈津子が包丁でリンゴの皮を剥きながら細い眉根を寄せる。

「うんたらかんたらとは、どういうことだ? 普通、待ち合わせするならその部分が一番大事だろう」

草鞋は急須にお茶の葉を入れていた。

「美果さんも、そこが一番大事なはずなのに、空欄で書き忘れてたみたいだって言うんですよ。しょうがないから、レモンとライムに、お父さんが待ち合わせ場所にしたダリアの列はどこ? って聞いたそうで」

巡の答えに、草鞋の片眉が跳ね上がった。

「ほう、君の甥御さんと姪御さんは、君の兄上が指定した待ち合わせ場所を知っていたのかね?」

「今月初めに両親と兄と甥姪だけでダリア園に観光に行ったんですよ。美果さんはその日仕事で行けなくて。それで、ダリア園で兄が妙ににやにやしてたダリアの花の列があったらしくて、甥姪はそこが待ち合わせ場所だと思って伝えたみたいですね」

草鞋は心底不思議そうに首を傾げた。

「……君の兄上は幼い子ども達にまで考えていることが丸見えなのかね?」

「兄は基本、無口で無愛想ですけど、それ以上に内心が顔や態度に出るんですよ」

巡はうんうんと頷く。

だからこそ、義姉がダリア園で受けたショックは相当の物だったのだろう。

「面白いお兄様ねぇ。さすが巡くんのご兄弟」

奈津子がくすくす笑う。彼女は剥き終わったリンゴをくし形に切って皿に並べると、来客用のテーブルの中央に運んだ。

「巡くん、お湯沸いた? 所長、お茶を淹れてくださいな。休憩にしましょう」

 

しゃくしゃくと小気味よい音でリンゴが喉の奥へ咀嚼されていく。

巡は入れたての緑茶を呑みながら、兄の話と義姉の話を反芻していた。

兄は花束まで持って待ち合わせ場所に行ったのに、義姉に誤解されてダリア園から帰られてしまった。

義姉は子どもたちを連れてダリア園に行き、手紙では空欄だったダリアの花の列を子どもたちの証言で突き止めて、待ち合わせの場所へ行ったのに、そこで浮気の告白をされたと言って、その場でダリア園を帰ってしまった。

ふたりはダリア園で会ってはいない。

なのに、なぜ、義姉はダリア園で浮気の告白をされたのだと思ったのだろう?

兄が手紙に書いていた”伝えたいこと”とは、いったい何のことだったのだろう?

「札所くん」

しゃくしゃくとリンゴをかみ砕いていた音が止み、目の前のソファに座った草鞋が、真面目な顔で巡を見ていた。

「……君の兄上だが、愛用のボールペンは何だね?」

「……は?」

巡は草鞋の言っていることが理解できなかった。

兄がどんなボールペンを使っているかなんて、知るわけがない。

「君の兄上は、大事なことだけ、赤ペンや黒以外の他の色のペンで書く癖がないかね」

巡は記憶をたどった。

「そういう癖は、ありますね。仕事柄、間違いや重要な個所は目立たせる癖がついているみたいです」

草鞋は頷く。

「では、これから私が言うことを確かめて、それが当たっていたら、君の義姉上にこう伝えるんだ。”旦那からの手紙をビニール袋で包み、冷凍庫に一晩入れておきたまえ。本当の待ち合わせ場所がわかるだろう”」

(……なんだ、その予言みたいなのは)

と、巡は思った。

 

数日後。

札所美果が子どもたちを連れてダリア園に行くと、唐突にメッセージアプリで連絡してきたので、コンビニで買い物中の巡は慌てて兄の礼一に連絡した。

日曜日で市役所は休みなので、礼一は家にいた。しかし、妻から弟に連絡があったというのに、彼はいっこうに家から出ようとしなかった。

「……いいよ。お前に連絡があったってことは、俺とは話したくないってことだろ。お前だけあって、離婚話を進めといてくれ……」

「嫌だよ!」

巡は言下に断った。

「美果さんの話が離婚話と決まったわけでもないのに、兄貴が決めつけてどうすんだよ! 兄貴は美果さんと別れたいのか?」

「別れたくねぇよ!」

礼一は大声で叫んだ。

「でも、美果を苦しませたくない……。俺が浮気したなんて誤解だけど、そう思わせてしまった俺にきっと原因があるんだ……。俺は美果とじゃないと幸せになれないけど、美果は俺とじゃなくても幸せになれる……」

(そういうセリフは本人に言ってくれ)

と、巡はげんなりした。

「とにかく、今すぐ家に帰るから、兄貴は出かける支度して待ってろよ? ダリア園に連れてくからな?!」

巡はほとんど怒鳴るように兄に向かって指示すると、足早にコンビニを出、駐車場の軽自動車に乗り込んだ。

 

小鹿野のダリア園は以前訪れた時とは比べ物にならないほど盛況だった。

先日と違い休日であることに加え、日にちが経ってダリアの花がすべて満開に近くなっていることが原因だろう。

ダリアの花の列は美しく咲き乱れた花々であふれ、大勢の人々が列の間の小路に入り込んで花の美しさを楽しんでいる。

駐車場からダリア園に降り立った巡は、渋る兄の腕を引いて入場料を払おうと売り場の小屋に立ち寄り、そこでにこやかに入場券を売っている奈津子に出会って仰天した。

「奈津子さん、なんで?」

「あら、巡くん。今朝、緊急でAIAIに頼まれちゃってね。売り場のおばちゃんの孫がインフルエンザとかで、休日出勤の娘さんの代わりに面倒を見なきゃいけないんですって。それで、私はおばちゃんの代わり」

奈津子はにこやかにほほ笑んで説明すると、

「はい。大人二名、八百円です」

ふたりに入場券とパンフレットを差し出した。

巡は受け取りながら、

「奈津子さんがここにいるということは、所長は?」

「今の時間は園内の定期巡回をしているわよ。犬を連れたお客様や小さなお子さん連れの方もいるし、いざという時に備えて、ね」

お子さん連れ、という奈津子の言葉に、巡は兄に聞こえないようにそっと奈津子に尋ねた。

「……うちの義姉は、子どもたちを連れて来てますか?」

奈津子は、目を大きく開き、記憶をたどるように首を傾げて、

「いえ、ここでは見てないわ。仲直りできそうなの?」

「そう、祈ってます」

巡は答えた。

 

礼一は園内に入ると、ふらふらした足取りでダリア園の間の小路を歩き、ダリアの花の列が途切れ、二つのベンチとテーブルが設置されて休憩どころになっている広場まで歩いた。

巡が様子を見ていると、礼一はそのベンチの片方に座り込むと、力なく肩を落としてため息をついている。

その様子は、まるで重刑を宣告された罪人のようだ。

巡が声をかけあぐねていると、

「あ、お父さんだ!」

「おとうさーん!」

聞きなれた幼い声がして、ブルーとピンクのTシャツをそれぞれ着た札所家の兄妹がわっとダリア園の小路を駆けてこちらに来るのが見えた。

巡はとっさに彼らの後方にいるはずの人物を探す。

彼女は、いた。

ロングヘアを背中でひとつに結び、紺のワンピースにベージュのカーディガンを羽織っている。彼女の実家で見た時よりは気持ちが回復しているようだが、思いつめたような表情は変わらなかった。

「美果……!」

礼一が救いを求めるような表情で妻の来る方向を見つめる。

巡はこのままふたりが出会い、和解して、お互いの愛を再確認することを願った。

美果が子どもたちに追いつき、広場に足を踏み入れた、その時だった。

「さて、どうやら役者はそろったようだね、諸君」

無駄なイケメンボイスが低く響いて、全員の視線がある人物に集中した。

「ここでこの秩父の名探偵、草鞋勝也が哀れな夫婦のすれ違いを紐解き、誤解の原因を言い当ててしんぜよう」

灰色のTシャツにジーンズ、黒いスニーカー。そして頭には麦わら帽子をかぶり、右の筋肉質の腕に”巡回中”と書かれた腕章を撒いた、所長の草鞋がそこに立っていた。

 

「……おや、どうした、札所くん。その殺意のこもった目は」

草鞋が不思議そうに尋ねる。巡は自分の視線が殺人光線にはならないことを心底残念に思った。

礼一と美果が不審そうな表情で草鞋を見つめる。ふたりとも彼を詰問する元気はないようで、代わりに子どもたちが「探偵のおじちゃん!」と瞳を輝かせて飛びついていった。

「おやおや、元気そうだな、柑橘系兄妹よ。ちょうどよい、君たちに訊きたいことがあるんだが」

草鞋は中腰になってふたりの体を受け止めながら、子どもたちに尋ねた。

「お母さんの実家に帰る前、君たちはこのダリア園に来たんだろう。その時、お母さんに教えてあげた、お父さんとの待ち合わせ場所は、どこかな?」

礼門と来夢は顔を見合わせる。と、礼門が思い出したらしく、「こっち」と草鞋の腕を引っ張った。

礼門が連れて行ったのは、入場口から広場に降りてくる道を通り、広場を横断して、背の高い木立の下に二つ並んでいるベンチのすぐ近くの花の列だった。

「ここかい?」

「ううん」

礼門は首を振ると、そのあたりに咲いているダリアの花々をじっと観察し、「こっち!」とまた草鞋の腕を引っ張った。

礼門が「ここだよ」と示したのは、先ほど礼門が立ち止まった花の列の隣の隣の、さらに反対側に咲いているダリアの花の列だった。注意してみるとこのダリアの花の列は半ばあたりでダリアの花の種類が変わっており、広場に近い側は黄色いダリアの花が咲いているが、途中から赤い大きな花へと変わっている。

「ほうほう」

草鞋はつぶやきながら、手を振って礼一と美果をそのダリアの列の近くへと来るように誘導した。当然ながら巡もついていく。

「さて、美果さん。あなたがご主人から浮気の告白をされたと判断した原因は、このダリアの花の品種名が原因ですね?」

草鞋はそう言ってダリアの花の列の前に差してある小さな看板を指さした。

”浮気心”

美果は頷く。

「……はい。だからてっきり、浮気したことを花の名前を通して告白してきたんだと思いました」

「えぇっ?」

声を上げたのは礼一である。

「ち、違いますよ。このダリアはそんな名前じゃないはずだ。だって、俺が指定したのは——」

草鞋は礼一の主張を押しとどめ、

「わかっています。あなたが奥さんに見せたかったのは、別のダリアの花だ。しかし、ご覧ください。このダリア園の花々は色とりどり、赤もあれば黄色もあり、ピンクもあれば白もある。大きさも咲き方も様々で、品種名もいちいち書かれていますから、一見区別は容易に見えます。しかし、よく似た花がないとは言えない。そして、もし品種名の書かれた看板が読めなかったら、よく似た花を指定された花と間違えてしまうこともあるのですよ」

「あ、漢字か……!」

巡が真っ先にその事実に気づいた。

兄妹は五歳と四歳だから、ひらがなやカタカナは読めても、漢字はまだ読めない。そして、ダリアの”浮気心”は漢字だ。兄妹はまだ、品種名が読めない。

「じゃあ、レモンとライムは間違ったダリアの花の列に美果さんを案内したんですか?」

「そうだろうな。礼一さん、あなたが本当に見せたかったダリアの花の名前は、こちらじゃないですか?」

草鞋はほんの数列、ダリアの花の列を移動し、”浮気心”とよく似た深紅の花を咲かせるダリアの花の列の前に立った。

「……そうです!」

後を追った礼一は、そのダリアの花を見て、泣きそうになりながら頷いた。

”純愛の君”

そこに咲いていたダリアの花は、”浮気心”よりもよりいっそう満開で、中心から太陽の光のように深紅の花弁を開かせていた。いくつもの”純愛の君”の花々はまるでひとつひとつが小さな愛の惑星のように、緑色の茎や葉の中に揺れているのだった。

「礼一さん……」

美果がぽつりと呟き、熱のこもった視線で礼一を見た。

その視線を受けた礼一は、自分がダリア園で何をする予定だったのか突然思い出したかのように、いきなり背筋をピンと伸ばし、咳払いをすると、真面目腐った顔をして、美果の前にひざまずいた。

「……美果。今まで俺のために、家族のために頑張ってくれてありがとう。君と結婚できたことは俺の何よりの幸運だ。これからも一緒に頑張ってほしい」

美果の目に涙が浮かび、色の薄かった頬に赤みがさした。瞳に力が戻り、美果はひざまずいている礼一の両手を握りしめ、「もちろん!」と熱い声を上げて同意した。

「…………」

いきなり兄夫婦の熱愛シーンを見せつけられて、巡は心が砂漠のように乾いていくのを感じた。兄夫婦は一見して美男美女だから絵にはなっている。絵にはなっているが、身内のラブシーンを覚悟もなく見せつけられて感動するかと言えば難しいのである。

巡は眼前のワンシーンを無視して、気になっていたことを草鞋に尋ねた。

「所長、兄が美果さんに送った手紙ですが、どうして肝心の待ち合わせ場所が消えていたんでしょう。美果さんからスマホに届いたメッセージでは、”本当に冷凍庫に一晩入れたら文字が浮き出た!”と驚いた様子で書かれていましたが」

草鞋は礼一・美果夫妻の熱い抱擁シーンを見て満足げに頷きながら、

「それは、礼一さんが使っているフリクションボールペンが原因だ」

と答えた。

「フリクションボールペン?」

首を傾げる巡に、

「美果さんにメッセージを送る前に、君に確かめてもらっただろう。君のお兄さんが待ち合わせ場所を書くのに使ったボールペンの種類は何だ、と。手紙を書くのに使ったのは普通の黒の油性ボールペンだったが、待ち合わせ場所を書くのに使った赤ペンはフリクションボールペンだった。フリクションボールペンは消せるボールペンとして有名だ。通常はボールペンの頭についているラバーで文字を擦ることで”摩擦熱”を起こし、インクを消す。フリクションボールペンのインクは60℃以上で消えるからな」

「そんな。いくら今年が酷暑でも、気温が60℃を超えることなんてありませんでしたよ」

巡の疑問に、草鞋はわざとらしくウインクをする(本人は片目だけつぶっているつもりらしいが、ばっちり両目を閉じている)。

「気温は、な。手紙が置かれていたのは車のダッシュボードだった。確かその日の日中は真夏並みに気温がぶり返したはずだ。直射日光を受けた車のダッシュボードの温度が何度まであがるか、運転する君なら知っているだろう」

巡は納得した。確かに、日光の差し方によってはダッシュボードは80℃近くまで上昇する。フリクションボールペンのインクが消えるには十分だろう。

「じゃあ、冷凍庫に手紙を入れさせたのは……」

「フリクションボールペンのインクは−20℃で復元する。フリクションのインクで書いた文字が消えたときは、濡れないようにビニール袋に包んで、冷凍庫に一晩おけば復活するんだ。メーカーのHPにも書いてある」

なるほど、と巡は内心呟いた。

予言のように聞こえた草鞋の指示も、理屈を知ればごく普通の豆知識だったのだ。

「それはそうと……」

草鞋は未だ抱擁中の礼一・美果夫妻を見やって、呟いた。

「あの夫婦はいつまで抱き合っているんだろうな。子どもたちはダリア園の園内を探検しに行ってしまったぞ」

 

10

「……建て替え?」

翌朝。札所家朝食の席。

「そうなの。礼一がこの家もいい加減古いから、建て替えたらどうかって。費用の半分は自分と美果さんが出すから、私ら夫婦とおじいちゃん・おばあちゃんで四分の一ずつ出してくれないかって。もちろん、バリアフリーだそうよ。素敵な提案じゃない?」

巡の母・静香は満面の笑みで昨夜、長男から聞いた建築計画を話している。

父・繁と兄・礼一は仕事、義姉は甥と姪を保育園に送り届けている最中であり、祖父母はとうに朝食を済ませて自室に戻っているので、食卓には静香と巡だけがいた。

兄が兄嫁と話し合おうとしていた内容はこれだったのか、と巡は納得しながら、その計画に重要なものが抜けていることに気づいた。

「……それって、俺はどうなるの?」

「あぁ、巡?」

静香はあっさりと、

「巡はあと二年で卒業じゃない。地元に就職する気もないんでしょ。だったら、二年くらい家賃出してあげるから、大学の近くで一人暮らしでもなさいな」

「え?」

唐突な”実家を出ていけ”宣言に、巡は衝撃を受けた。

「そ、そんな。俺に自分の家事をやれって言うのか、おふくろ……」

「結婚したらどうせお嫁さんを手伝わなくちゃいけないのよ。今から練習しとけばいいじゃない」

静香は当然のように言う。

「俺は……嫁には専業主婦になってもらって……」

「人ひとり養えるほどの給料をアンタは稼げるの?」

「ぐっ」

実の母親に痛いところを突かれ、巡は敗北した。

確かに、結婚相手がよっぽどの資産家令嬢か高給取りならともかく、巡と同じ一般家庭出身で能力も同等な場合、共働きになる可能性が高い。

「あー、でも、そうすると、バイトはどうすればいいんだろう。AIAIにやっと慣れてきたところだったのに……」

巡は漬物のキュウリをポリポリと食べながらため息をついた。

「まぁまぁ。今すぐ家を建て替えるって話でもないから、ゆっくり考えて」

静香は慰めるように言うと、食べ終わった食器を片付け始めた。

巡は、湯飲みから緑茶をすすりながら、これからの未来に思いをはせた。

 

11

「あら、綺麗なダリアですね。昨日買っておいたんですか?」

同日、便利屋AIAI事務所。

強面に似合わぬ満開のダリアの花束を事務所に持ってきたのは、所長の草鞋勝也である。

「うむ。先日行った時にはまだ販売コーナーには置いていなかったから諦めたのだが、昨日は売られていたからな。どうだ、その名も”ミセス・アイリーン”。あでやかで美しい花だろう?」

草鞋はピンク味の強いオレンジ色の、大輪のダリアの花にほおずりする。

「まさしく、シャーロック・ホームズを出し抜いた唯一の女性の名にふさわしい花だ!」

上機嫌の草鞋を見ながら、奈津子は(それで仕事でもないのにダリア園に行っていたのね)と、草鞋のホームズ・マニアぶりに呆れていた。

 

(おわり)